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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

我々は誰しも常に「私」を演じている(劇場空間型都市の解釈)

 

 

「人は誰しも猫を被っている」

という話をなるべく穏便にしたいのだけれど、この言い方だとどうしても角が立つというか、心象を悪くされるのもアレなので「私になる」という表現を使ってみようと思う。

 

 

外に出る時。

別に、コンビニに行くでも渋谷に行くでも良いんだけど、当然服を着ると思う。

服を着て外に出る。ここまではOK?

服はその人の個性が染みついている。派手な色使いの服を着れば人の関心を惹くことが出来るし、爽やかな色の服を着ている人は自分をそういう風に見て欲しいのかもしれない。「いや、おれは服に個性なんて染みついてない、無頓着だから何も考えずに適当な服を着てるから」という人でさえ、その服を着ることで「無頓着」という印象を周囲に与えているという点においてはやはり服に個性が染みついている。

 

それと同じだ。

えーっと何が同じかと言うと、「私になる」というのが、意味的に同じってこと。

職場での私(明るくて冗談が好きな私)家族といる私(穏やかな長男の私)友人といるときの私(積極的で口が悪い私)そのどれもがれっきとした「私」であり、 これが本物!みたいな人格があるわけでもない。

 

我々は「私」という属性を纏って生活している。

さながら洋服のように。

 

そして我々はTPO(時と場合)に応じて適切な服を選択して外に出るものだ。

スーツで遊園地に行ったり、半ズボンで企業説明会に行くと周囲から浮いてしまうように、職場で急にわがままな甘えんぼになっちゃったり、会社でのビジネスライクな言動を家庭に持ち込むと必ず違和感や軋轢が生まれてしまうのである。まあ基本的には我々はこういうことをしない。とにかく我々はTPOに応じて「私」を纏う。

 

厚着の人、薄着の人

 

次に僕が話したいのは、人によって服が厚着だったり薄着だったりするということだ。もちろん基本的には寒い環境であれば厚着をすべきだし、蒸し暑い環境であれば薄着をすべきだが、着目すべきは人によって寒がりだったり暑がりだったりするということだ。環境に関係なくいつも薄着の人、厚着の人。または薄着のときと厚着のときのギャップが激しい人。

 

具体例をあげれば、どこに行っても素そのものみたいな人も世の中にはいる。(僕のこれまでの論調だとありのままの自分なんてものは存在しないという考え方になるのでこう言い方をした。人は環境に依存せずに生きることはできないので、自分に付随する全ての記号・属性を脱ぎ捨てると自我を失うことになってしまう。)

なんだか突き抜けていて生きやすそうに見える。「ああいう人は自分を繕わずに楽そうだな」と周りは思う。これが薄着がちの人だ。

 

あるいは、プライベートと職場とでキャラが全然違う人。

休日はほんわかしていておっとりしているのに職場だとビシッと変身する人(偏見だけど女性に多い気がする)あれは何なんだろうな...仮面ライダーみたいだよね。原理はわからないけど、家でパジャマばかり着ている人が外に出た途端かっちりとしたスーツを着こなす、そんなイメージだ。こういう人は大抵責任感や正義感が強く、「こうでなくては」というビジョンをしっかり持っている。自分にも他人にも厳しい傾向がある。

気がする。

 

劇場空間型都市の解釈

 

さて。

ここでようやく主旨のほうに踏み込むことになるが、

「都市とは劇場である」という考え方がある。

これはどの分野の人がこの言葉を口にするかによってニュアンスが大幅に変わってくるのだけれど、今回は僕が大学で取り扱っていた建築及び都市計画の観点から説明してみる。

 

ディズニーランドの来場者は「ゲスト」と呼ばれる。(従業員はキャストという。)ゲストはディズニーランドにおいて「ディズニーランド的な」振る舞いをする。早い話がミッキーのカチューシャをしたりする。新宿でミッキーのカチューシャをして歩いていたら結構浮くし、おかしい人だと思われてしまう。なのに舞浜にある大型遊園地の敷地内では全然浮かない。むしろ普通のことだ。

新宿では浮く、ディズニーランドでは浮かない。

 

これを説明するためにはディズニーランドを「劇場型遊園地」と呼ぶ必要がある。

つまりディズニーランドにおいて来場者は「ゲスト」を「演じている」のだ。

「劇団四季」の「ライオンキング」で役者が上半身裸でライオンのたてがみをつけるように、「ディズニーランド」のゲストはミッキーのカチューシャをつけるのである。

 

ちなみにそういった「劇場型」の空間において、「演じない」という禁じ手を取ると場がすげえ白ける。「このソフトクリームって原価いくらなんだろうね」とか「こんな夏場の日って着ぐるみの中暑そう」とかね。これは折角劇場においてゲストを演じている人の目を覚まさせてしまう機能を持っていて、目を覚ますと「環境に踊らされてはしゃいじゃってる自分」が露呈して恥をかかかせることになる。

ので絶対にやっちゃだめだよ!場にそぐわない、「劇場」で「劇場」を否定する発言をする人は現実主義なのではなくて単に「その場」に「ノれない」KYなので注意が必要。

 

無数の属性を纏う我々 

 

これと同じことが、日常のあらゆる場所で起きている。

これが劇場型都市空間の考え方だ。

 

渋谷にいる人は渋谷の人間を演じている。

新卒は「新卒」を演じているが、

地元に帰れば「先輩」を演じるだろう。

ある人は会社では「部長」を演じ、

家庭では「父親」を演じているだろう。

SMクラブに行ったら「マゾ」を演じるかもしれない。

 

こんな風に僕たちは自分で認識している以上にあらゆる属性(=服)を持っている。さながらTwitterのハッシュタグみたいに。

 

アンディ#筆者 #明るい先輩 #ドジな部下 #長男 #兄貴 #友人 #マラソン選手 #東京人

 エトセトラ、エトセトラ....挙げ出せばキリがない。

 

 

 

最後に僕の見解として、都会の人は厚着で、地方の人は薄着というイメージがある。もう少し厳密に言うと、都会の人は薄着でいられる円が小さく(最小単位は自分の部屋だ)地方の人は薄着でいられる円が大きい。パジャマで近くの自動販売機まではセーフだけどコンビニは無理、みたいな(笑)

これは都会の核家族化とか地域毎の交流の密度とかが複雑に影響しあった結果だと推測する。が、またここに踏み込むと文章が長くなるのでよす。

 

本当に愛嬌があって根明(根暗の反対)な人が都会にいると、本人は薄着なのに「この人はどうしてこんなに厚着なんだろう?」というあらぬ誤解を受けるという悲劇も起きたりして、っていうかこないだ起きたんだよね。

 

そういうときに僕たちがどう振る舞うのか、

また今言ったみたいな悲劇が起きた時にどう対処すべきかというのは

現在担当の者が調査していますのでお答えしかねます....。

 このあたりは宿題にさせてください....。

 

 

おしまーい!

 

andy0330.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

語彙が多い人ほど怒らない、は本当か?

 

 

日記を書いている人は精神が安定する

という個人的な仮説が人に説明できるくらいの背丈になったので書く次第。

 

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アメリカ人は「切ない」か

 

最近このブログでも書いている通り、人は言葉なしに世界を認識することはできない。

いや、あるいは認識は出来るかもしれないが、解釈はできない。

 

例えば「切ない」という日本語がある。

卒業式の日に桜の樹の下でみんなで写真を撮る。こんな風に集まれるのも最後なのかな...切ない。と思う。"切ない"という言葉は基本的に日本にしかない。

切ないは英訳できない。

だから英語にない限り英語圏の人は"切ない"を認識できない、と考えてみる。

(ポルトガル語では"サウダージsaudade"という言葉があってこれが近い。アメリカ人は切なくならないがポルトガル人は切なくなるのかもしれない。)

 

語彙は画素数

 

他の例を挙げてみる。

 

にんげん、年を取ると怒りっぽくなる。

ボケてるわけじゃなくても急に怒鳴ったり癇癪を起こしたりする。これは脳の機能が低下して記憶力が衰退することによって語彙(ボキャブラリー)が減ってしまい、自分の気持ちを伝えようにも気持ちが高ぶるばかりでそれを表現できず、結果としてもどかしくて怒り出す−ということらしい。

赤ん坊と変わらないようだがその通りで、赤ん坊が泣くのも語彙がないからだ。語彙がないから「ワーーーー」しか表現のしようがないのだ。

キレやすい若者。

「うざい」「きもい」「やばい」と繰り返すばかりでやたらと語彙が少ないのが特徴だ。自分の気持ちを表現する(自分に対して釈明する)言語がとても少ないので結果感情をうまく整理することができず「うぜえ!」とキレてしまう。

語彙は画素数のようなものだ。言葉を知れば知るほど画素数があがって、物事に陰影をつけて色鮮やかに表現することができるようになる。

 

言語というステップ

 

日記を書く人は日々の生活を(これを世界と呼ぶことにする)わざわざ文章で書く。

つまり言語にする。

普段人は世界で生きる上で「出来事→言語→反応」という手順を踏んで反応している。そして人は物心がついてから年を重ねて行く中で「出来事→反応」という風に言語をスキップすることができるようになる。だから冒頭のような「人は言葉なしに世界を解釈できない」という言われ方をすると「そんなことないよ」と反感を持つ。僕はその途中の部分をスキップしているだけで、本当はコンマ秒くらいそのステップを踏んでるんだよ、と言いたい。

 

SNSが発達した昨今では情報はパッケージ化され、一口サイズに切り分けられ、そしてそれらは濁流のように押し寄せる。電気信号のように。そのスピードと量があまりにすごいので僕たちはそれについてひとつずつ深く考える時間も与えられず、ただ「イイね」かそうじゃないかという2択をいつも迫られる。出来事からシームレスに反応することを強要される。そして反応のあとで「で、さっきのなんだんだろう?」と思う頃には次の情報がやってきて「イイね!」かどうかを迫られる。現代人はどんどん言語を軽視するようになるんじゃないか?と不安になる。

 

日記で文章を書くという行為は、「出来事→言語→反応」という手順を改めて踏み直すという機能を持っている。「今日は晴れだったのでこないだ買ったばかりのシャツを来て出かけることに決めた。この服はちょっと高かったけどずっと追い求めていたデザインのものだったので後悔はなかった。」という些細なことを日記に書くだけで著者は自分の出来事を言語で再解釈するようになる。

 

余談だけど村上春樹『風の歌を聴け』に登場する主人公は身の回りにあるあらゆる物事の数を数えることによって自分と世界の接点を認識していた。

当時の記録によれば、1969年8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。

 その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。

 

 

と、余談だけど。

話をもとに戻すけど、えーっとなんだっけ。そうそう。日記を書く人ね。この「出来事をわざわざ言語で知覚し直す行為」を習慣化させた人。

彼らは今度は既に起きた出来事を言葉で表現するだけでなく、これから起こる出来事も丁寧に言語というステップを踏んで反応にたどり着くようになる。言語という段差を飛ばさないようになるのだ。言語というステップを踏む人は起こった出来事の意味を考えるようになるので突発的に怒ることがないのだ。

 

 

突発的に怒らない仕組み

 具体的には「君の文章面白くないよ」と言われたとする。

なんだとっ!

やはり、むっとする。

面と向かって自分の文章を非難されたという「出来事」に対して電気信号的に「ムカつく」という反応を示しているからだ。

対して日記を書く人は世界で起こる出来事に対して言語で認識するというステップを確実に踏む習慣が(無意識に)できているので、「君の文章面白くないよ」と言われた時にまず「君の文章面白くないよ、と彼は言った。」と認識するのだ。

ここは非常に重要で、アドラー哲学でも触れられている部分なんだけど、今回のことで言えば非難してきた相手の言葉は言ってしまえば「音の連続」に過ぎない。風の「びゅう」という音や木々の「ざあ」という葉の揺れる音、それと変わりない。原理的には。ただそれがたまたま言語で、そして日本語という自分の知っている言語なので「kiminobunshouomoshirokunaiyo」はムッとくるのである。

こうやってローマ字で書くとムッとしない。

「omaehabakadebusaikuda」っていうのもムッとしない。

「お前はバカでブサイクだ」と書くとムッとする。なぜならローマ字は一度文章として認識することを能動的に行わなければならない為、即座に反応できないからだ。

言語のそういう側面を利用することでアドラー哲学では「相手の言った言葉は、相手がただそう言ったという出来事があっただけで、実のところそれは自分の本当の評価とはなんの関係もない」と説いているわけだ。

 

まとめ

 

以上のような仕組みをもって、

日記を書く人は精神が安定していると説明してみた。

 

まとめると日記を書く人の精神が安定している理由は2つあって、

ひとつは日記を書くことで語彙が増えるので言葉の画素数が上がり、感情表現が豊かになるから。

もう一つは日記を書く=世界を言語で再認識することで自分の意識が出来事からシームレスに反応に移行するのを防ぎ、間に言語を挟むことで「そういう出来事」というくくりで自分の外に置くことができるからだ。

 

とはいえ頭にくることはやっぱりあるし(笑)、当然その人の性格や生活環境といったあらゆる外的要因を無視することはできないが、少なくとも普段「おしゃべり」以外で自分が言語とどれだけ接しているのかという問題は自己表現の方法に大きく関わってくるので精神の安定の問題と切っては切れない関係にあるのは間違いないと思う。

 

まあ、なかなか日記を続けるのも難しいけどね。

襟を立てた少年が3年続いているのは褒めて欲しいな!

 

 

読んでくれてありがとう。

今日はここでおしまいっ

 

 

andy0330.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

自分年表をつくろう!

 

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自分年表をつくろう!

何のために?人生のコンセプトを見つけるために。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

千葉雅也さんの『勉強の哲学』を読んでいる。

その中の第三章「実践編」で自分の年表をつくるようなことが勧められていた。

(かなり自分なりの解釈で進めている部分がありますがご容赦下さい...)

 

 

自分の現状のメタな分析によって、

勉強の可能性はきりがなく広がります。(中略)

 

いまの自分が、どういう他者に刺激され、

どういう大きな時代状況のなかで

このように構築されたのかを客観視するのです。(中略)

 

(年表に出てきたことを接続するような)その抽象的なキーワードは、

自分を無意識なレベルで衝き動かしてきた、

なにか大きな「人生のコンセプト」に相当する。 

 

人生のコンセプトは自分の半生から考察することができる。具体的には、半生の中で転機になった、つまり「自分で舵を切った」場面とその接続にフォーカスを当ててキーワードを抽出し、「人生のコンセプト」を仮に決定する。(本当の人生のコンセプトなんてものは決断しようがないとも言えるので仮に決定することしかできない。)

 

 

 

人は全ての行動を自分で決めて生きているわけではない。

いや、むしろあらゆることが環境や状況によって「決めされられて」いるとも言える。

 

 

 

確かに僕は今日、自分の服を自分で選んだ。

 

しかし、服を選ぶ過程で僕は「今日は雨が降る」「今日は会社に行く」「外は寒いが会社では暑いかもしれない」「洗濯中のあの服は着れない」といった数え切れない環境の干渉を受けて今日の服を「選ばされている」

 

お昼に蕎麦屋に行ったのは近くに蕎麦屋があったから。お金もなかったし。

子供の頃スイミングスクールに通っていたのは母親が熱心に勧めたから。

今自分がデザイナーになったのはテレビ番組でカーデザイナーを見たから。

 

「...だから人は偶然の積み重ねで出来ている」という話は今回はしない。

この結論に達すると人生に敗北したことになってしまう。

偶然の積み重ねだけで人が自分の運命を歩いているのだとしたら、

自発的に努力すること、挑戦することは虚しいだけだ。

 

実際、上記のような「決めさせられている」出来事の数々は本当に偶然だろうか。

 

蕎麦屋の近くにはカレー屋があったし、母親が他にも通わせた音楽教室やそろばん教室はちっとも続かなかった。カーデザイナーの番組は見たが、医療のドラマも、レーサーの中継も見たはずだ。僕は自分のこだわり(享楽)でそれらを選択している。

 

僕は確かに自分の人生を選択しているのだ。

 

 

人生の場面ごとで舵を切る原因となった「こだわり(=享楽)」を見つけ出すことで人生のコンセプトに出会う。そのために自分の年表をつくろうというのが今回のテーマだ。今回は『勉強の哲学』の手法を読みながら作業を進めるけれど、僕が作業する限りある程度のアレンジというか、都合よく進める部分も出てくるので本格的に年表づくりをやってみたい人はぜひ本書を買って見た欲しいと思う。

 

履歴書的な経歴を書く

作業は紙で進めてもいいが、PCやスマホでやることを勧められている。

たしかにやってみると色々加筆したり添削作業が多いのでデジタル上でやったほうが捗ると感じた。

 

まずは履歴書みたいに大枠の経歴を書く。

これなら誰にでもできると思う。

 

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それにしてもつまらない人生だな。 

とこの段階ではどうしても落ち込む(笑)

経歴を見ただけでは「ふむ」と行った感じで目新しさはない。

 

 

歴史的なニュースを書き加える 

次に自分の半生の前後で起きた歴史を加筆する。

著者の例では「第二次世界大戦」を書いていたが、あまり実感が湧かなかったのでもっと近い「ベルリンの壁崩壊」から書き加えてみた。

ベルリンの壁崩壊−そして彼は生まれた−....

なんてナレーションを脳内再生して一人でにやにやする。

実際、自分の経歴に歴史を加えるだけで

自分が大きな世の中の大河の中で生きていることがわかる。

正直、この時点ですげえ面白い。

 

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色を使ったり太字・大文字を活用すると見やすいがやりすぎると見づらくなる。

加減が肝心だ。大きなニュースから「iPhone発売」みたいな個人的に興味深いニュースを自分なりに加えるとさらによくなる。

 

自分が好きだったもの・細部を書き加える

それから年代毎に細部を考えて書き加える。

高校時代何部だった?何にハマっていた?

どんなものが好きで、夢中だった?あるいは何が嫌いだった?

 

あとは僕に大きな影響を与えた書籍を

読んだ年代に書き加えておいた。

 

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こうなるとかなり充実してきた。

僕の人生の転換点のひとつは「美大入学」なので、

なぜ美大を選んだのか?なにが僕を美大進学に衝き動かしたのか?

というところから逆算して考えてみた。

すでに年代と大枠があるおかげで楽しく年表を書き加えることができた。

 

 

原因を深堀りしてキーワードを書き出す

今年表が完成したところで、キーワード出しが完全には終わってないけれど。

とりあえず先ほどの年表からさらに原因を深堀して、どんなことをがあったのかをさらに書き加えたものを年表の完成形とした。完成したものがこちら!

 

軌跡

 

1989年 ベルリンの壁崩壊

1991年 バブル崩壊(失われた10年)

1992 東京生まれ

1995 windows95発売

    阪神淡路大震災

1998 小学校入学

・絵を描くのが好きだった。

・ずっと体が小さく運動が苦手だったので

昼休みはずっと教室にこもっていた。

・新しいことを発想するのが好きで通信簿に

“アイデアマン”と書かれる。

・中学受験を体験。塾でいじめにあう

2001年 アメリカ同時多発テロ

2004 中学校入学

・図書委員長を担当。小説を読むのが好きだった。

・中学生から日記をつけるようになる。

・文章を書くのが好きになる。

2007 高等学校入学

2007年 世界金融危機

    iPhone発売

・陸上競技部長距離に所属

・東京モーターショーでデザインに興味を持つ。

・イタリアで活躍する奥山清之の番組に夢中になる。

→その影響で海外に漠然とした憧れを持つようになる。

→カーデザイナーに憧れて美大を目指すことに。

・美術予備校に入る

・文章で書いている内容が単に日記の枠を超えて複雑になってくる。

・文章上で自己との対話をしたり、思考の検証をするようになる。

→余白が足りず、日記帳をやめて原稿用紙で文章を書くようになる。

・村上春樹『ノルウェイの森』

・奥山清之『フェラーリと鉄瓶』

・吉岡徳仁『みえないかたち』

・深澤直人『デザインの輪郭』

2010 美術大学入学

・写真に興味を持ち写真部に入部。

「もの」より「こと」のデザインに興味を持つ。

原研哉の影響でプロダクトそのものよりも

人の行為をより良い方向へアフォードするデザインに興味を持つ。

・原研哉『日本のデザイン』『 DESIGNING DESIGN

2013年 ブログ『襟を立てた少年』

・本格的な文章の公開を始める。

・自分で思考する作業と発表する作業が初めて繋がる

・ドイツ語検定を受ける

・スタジオカメラマンとして働く

2014 会社に入社

・アメリカ大陸を2週間かけて縦断

・ロードバイクに乗り始める

2015年 パリ同時多発テロ

・恋人と別れ、親友を失う。

2016年 木更津トライアスロン 完走

・グループ展『日曜日のパレード』で写真作品を公開

・ブログ『襟を立てた少年』の読者が100人を越える。

・祖父が亡くなる。

・読売新聞を購読し始める

2017年 ハーフマラソン 完走

・読売新聞「気流」にエッセイが載る。

・仕事に慣れてきて周りが見えるようになる。

・慣れによる安心から自身の成長が停滞する未来に危機感を感じる。

・本を読む中で近い将来やってくるグローバルな世界の明確な形を予測するようになる。

→単一言語しか使えない自身の現状に危機感を覚える。

(第二言語として英語を獲得しても不十分だと感じる)

→真の多様性の中に身を置いて改めて勉強したいと思うようになる。

→これまで漠然としていた海外への憧れと、

近い将来やってくる新しい世界で自分に求められることが繋がる。

・自分で英語学習をはじめる

・ブログ『滑走路のために』

・リンダグラットン『WORK SHIFT』

・岡田栄造『海外でデザインを仕事にする』

 

 

僕が自分の年表からひねり出した(連想した)キーワードは以下の通りだ。

「デザインをデザインする」「ものよりこと」「考えることを考える」「書くことで世界との接点を見つめる」

 

うーんいまいちパッとしないけれど、人生のコンセプトは確かにこの辺りにある気がする。今までちっとも意識しなかったけれど僕の人生にはずっと文章を書くことがあって、下手すれば僕の本業のデザインよりも文章を書くことのほうが僕の人生の本質なのでは...?!?!などと考えるとギクリとする。

『勉強の哲学』でもあるとおり年表で導き出された「人生のコンセプト」も仮のものに過ぎず、結局は生きて行く中でそれは転換したり揺らいだり覆されたりするものだということを忘れてはならない。

 

今はこの年表を添削しながらもっとキーワードを出しているところ。

『勉強の哲学』の最終章も読み切っていないのでそこも合わせて進めたいと思っている。

 

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

 

読んでくれてありがとう。

おしまいー!

 

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↓昨日書いた記事ね!

andy0330.hatenablog.com

 

 

 

 

言語が言語になる前に

 

andy0330.hatenablog.com

 

「日本語が堪能な外国人は普段 何語で考えごとをするのか」という昨日のエントリーに対して大きな反響を戴きました。ありがとうございました。

 

 

方々で読んでくださった方が感想を書いてくれているので、それを踏まえて軽くフィードバックしたと思った次第。たかがブログでもフィードバックは大事。ソクラテスが言ったように「吟味されない人生は生きる価値がない」のだ。

 

 

 

昨日書いたことを復習すると、

 

「人は言語を通じて世界を見ている。だとすれば、言語を複数持つ人は思考ベースを複数持つということになり得るのか?それとも彼らに取って言語はチャンネルのようなもので、その時々に応じて切り替えているだけなのか?」という仮説

 

それに対して、

 

やはり言語というのはその時々の環境に色濃く影響を受け、それ以前に言語はリキッドで曖昧としていて、捉えどころのないどろどろしたものなので、口から出る前の言語は不確定的だということがわかった。

 

のだった。意識の中は言語によって秩序づけされておらず、

混沌としていて環境による影響をモロに受ける。

環境っていうのは住んでいるところもそうだし、会話している相手にしてもそうだろう。あるいは、日本語が堪能なイタリア人の同僚は一人で味噌汁を飲んだらその影響を受けて日本語で考え事をするだろうか?(笑)

 

昨日の記事で登場した言語学専攻の中国人スタッフは「諸説ありますが、夢を"その"言語でみたら、その言語を習得したレベルまでいったと考えられるそうです。」と説明していて素敵な考え方だなと思った。

 

 

例えば英語を一生懸命勉強している人が英語を話す際には

「意識」→「日本語」→「英語」というステップが必要になる。

それが英語習得者になると「意識」→「英語」とシームレスな変換ができるようになるのだ。要は日本語を端折ってるわけだ。

 

そうしているうちに人は使用する言語の影響を受けて「英語」っぽい人になっていく。つまり人が言語に影響を及ぼし、言語が人に影響を及ぼしている。それは相互的な運動なのだ。

 

 

 

混沌の段階が具体的にどうなってるかはよくわからないけど、例えば「芸能人の名前が思い出せない」ときなんかは「あれ...ほら、あれだよ」なんて口走っちゃうけれど、あれはまさにイメージだけが残っていて、言語が後手に回ってしまっているパターンだ。

 

 

何語でもないことを考えているって何だかぞっとする。

ブログの後半でもちょろっと書いたけど僕は今外国語を勉強していて、それはもちろん留学だったり海外就職みたいな具体的な目的はあるのだけれど、それ以上に「言語のチャンネル」とでもいうべき機能はとても興味深いなと考えているから。

 

日本語しか話せなければ、日本語的な考え方をするしかない。日本人が日本語を話す限り永久に発想できない(日本語では思いつきようがない)アイデアや価値観、考え方がこの世にあるとしたら僕はたまらなく悔しい。

 

 

 

 

だから僕は現時点でもある程度仕方がないと考えているけれど、日本語的に「こうだ」と決めつけずにリキッドなイメージを大切にして言語と付き合っていきたいと考えている。いや、むしろ複数言語話せないからこそ言語になる前のリキッドなイメージに目を凝らすべきなのかもしれない。

 

 

読んでくれてありがとう。

 

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日本語が堪能な外国人は普段 何語で考えごとをするのか

 

日本語が堪能な外国人は普段 何語で考え事をするのか

 

僕は仕事中にこんなことを思いついてしまった。

 

「人は言語を通じて世界を見ている。だとすれば、言語を複数持つ人は思考ベースを複数持つということになり得るのか?それとも彼らに取って言語はチャンネルのようなもので、その時々に応じて切り替えているだけなのか?」という仮説だった。

 

 

例えば僕の親しい同僚でイタリア人がいるのだけれど、日本に5年以上住んでいて日本語は何不自由なく使えるし、おまけにイタリア語と英語とスペイン語を自由に操っている。そんな彼は普段何語で思考しているのか。

イタリア人だからイタリア語で思考する。のか?

そんな短絡的に考えていいのだろうか。

 

彼は日本に住んでいる。

だから基本的に思考も言語も日本語に引っ張られるのが自然だと思う。

 

具体的には「鈴木さんとみずほ銀行に行かなきゃ」ということを考えるとき、イタリア人の彼はわざわざ「Andrò a Suzuki-san e la Mizuho Banca」と考えるだろうか。「鈴木」「みずほ銀行」という変換的不可能な根本的な「日本語」がアンカリングして最初から日本語で考えることが決定されるのではないか。

 

じゃあイタリア人の彼が日本人の僕と会話しています。そしてスペインの素晴らしさについて語るときは、何語で考えながら僕と会話しているのだろうか。

 

 

 

 

この仮説について深く考える為に僕は会社の日本語検定1級レベルの語学力を持つ外国人スタッフ10人にアンケートを取ることで研究を深めることにした。(仕事しろよ)

 

その前に堪能な英語を話す日本人2人と食事をしたときに「日本語が堪能な外国人って普段何語で物事を捉えて考えるんだろうね」と訊いてみたら「あーたしかにそれはわからないですね」という答えが帰ってきた。「英語が堪能な君たちは普段英語発で考えごとをすることはあるのかい」と訊くと「留学時代ならともかく、今はないですね」と言った。留学時代は起こり得るらしい。やっぱり環境が言語の選択に深く関わるのかもしれないと僕は思った。

 

 

それから僕は中国人にそのことを訊いてみた。

後からわかったのだが彼はなんと大学時代言語学専攻だったのだ!

 

言われた回答を要約すると「言語はあなたが思っているよりずっとリキッドで捉えどころのない、イメージのもので、平時は脳の中で混沌的に渦巻いている。

 

何か言葉を発する前に考えるとき、それはまだ言語ではなく、単なるイメージとして組み立てられている。言語化するのはそのあとの話なので、思考する段階では何語でもないです、とのこと。

 

強いて言えばそれがごちゃまぜの言語であり、

日本語と広東語と英語がまぜこぜになった混沌で思考するらしい。

 

 

 

そのあとアルゼンチン人の同僚に同じ質問をしたら

「例えば今はアンディさんと日本語で話しています。なのでそのあとはしばらく日本語であれこれ考えます。ポルトガル人と話したあとはしばらくポルトガル語で考えます。」という答えが返ってきた。

つまりその時々に応じて関わった人との会話言語が

のちの関係ない考え事にも影響を及ぼすというのだ。

 

やはり言語というのはその時々の環境に色濃く影響を受け、それ以前に言語はリキッドで曖昧としていて、捉えどころのないどろどろしたものなので、口から出る前の言語は不確定的だということがわかった。

 

僕は将来的に英語を学び、いずれは第3ヶ国語を学びたいと思っている。(あらゆる日本人が当たり前に英語を話す時代はすぐそこにあるが、だからこそ第三言語が重要になってくると僕は考えている。)

 

 

複数言語を持つことで物事を多様に捉えて考える。

そういう日を夢見て今日も勉強をしている。

 

 なんちゃって!

 

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おしまい

 

ボルダリングジム「Fish&Bird」に行ってきたよ!

 

ボルダリングへの憧れ

 

「ボルダリングをやってみたい」としばらく言い続けてたんだけど

ついに先日ボルダリングジムに足を運んでボルダリングをしてみたので

そのことについて語ります。

 

 

 

なぜボルダリングなのか

 

僕は誰にも「ボルダリング楽しいよ」と言われていないし、何かおすすめされるような記事に出会ったわけでもない。突然自然発生的に、「自発的にボルダリングしたいやばい」と思うようになった。

そして興味深いことに、そのことを同年代に話すとかなりの人が「そうそう!自分もやりたいと思ってて!」と同調してくれたのだ。これは何が起きているんだろうと気になっている。

 

僕の場合はまず「運動したい」という欲求が何よりまずある。

体を動かしてストレスを発散させるわけだ。

 

そして次に「何か新しいことに挑戦したい」という欲求がある。

なんでもいい。カヌーでもトランポリンでも乗馬でもでも、何か新しいことに直面して新しい感覚を得たい。僕はクリエイティブな性質があるので余計にそう思う傾向があるけどこれは誰しも持っている感覚だと思う。

 

そして最後に消去法になる。

とりあえずカヌーのような場所を制限されすぎるスポーツや、何かしら道具を揃えなくちゃいけないものは除外される。

 

すると残るものはいくつもない。ハイキング・ランニング・ボルダリング・水泳。

あとなにがあるだろう?

 

 

ボルダリングはなんだか面白そう。というのは共通の感覚としてあるみたいだ。

そもそも僕たちは小さなころから丘とか滑り台とかジャングルジムとか、垂直の動きが物珍しく新鮮だった。潜在的にそういうのが好きなんだと思う。

 

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こんな動きしないでしょ普通。

それが物珍しいから「やってみたい!」って思うし、

壁がカラフルなのが見栄えとしてちょっとカワイイしね。

あとは前述の通り人は垂直に動くのが好きなんですよ。

あとは「本気出せばできそうな気がする。」ってのもあるし

運動になりそうだよね!

 

しのごの言わず行くべし

 

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それでこないだ行ってきたよ。

ボルダリングジム「Fish &Bird」に。

 

fish-bird.co.jp

 

ジムは外装がまずすごいおしゃれ。

おしゃれな扉を開けたら中はウッドテイストでいろんなグッズが売っていて、おまけにジャズが流れていた。「だいぶヒエラルキー高いところ来ちゃったけど大丈夫か自分」という謎の不安に襲われる。

 

受付で会員登録をする。初回は会員登録の費用を払わなければならぬ。

トラブルを起こさないための誓約書を書いたりして無事会員カードをゲットする。会員カードもあんたこれまた、おしゃれでかっこいい。「おれボルダリングやってるんだよね」って感じのカードだ。

 

それから更衣室で着替えるんだけど、

ボルダリングに必要なものってほとんどなくて、

強いていうならシューズがいる。

 

でも大抵のボルダリングジムはシューズのレンタルをしてるみたい。

服装もさすがにワイシャツでやってる人はいなくてみんなせめてTシャツだったけど、下はジーパンの人もいるくらいだから専用のものを揃える必要が全然ないのは助かるなーと思った。

 

 

着替え終わったら店員のお兄さんに初歩の初歩から説明を受ける。

専用のシューズの説明、壁の登り方、マナーとか。10分くらいの説明でチュートリアルが終わった。

「はいじゃあ登ってみましょう」

 

登ります

 

とりあえず一番簡単なやつから登る。

一応ルールで「1」を登るとしたら「1」と番号が振ってある石しか使っちゃいけないんだ。となりに「14」っていう石があったらそれは触ったらルール違反で、「14」は「14」を登るための石になっている。

 

その番号を見ながら「これは良い」「これはダメ」と考えながら登らないといけないので最初はかなりもたもた登ったけど、段々登って行くうちに触っていい石が一目で見分けられるようになっていったので要は慣れですね。

 

最初2、3回登った時の感想は「案外いけるじゃん!」だったんだけど5回目くらいから「これは腕への負担がやばい!」ということに気づいて、まあ気づいたからどうってあれじゃないんだけど15回目くらいで登れなくなった。

腕がぱんぱんになっちゃって。

 

でも楽しかった。登る前に戦略をたてて「まず左手であれを掴んで、次に足をあげてから右に動くでしょ、そしたら....」とぶつぶつ考えるのも面白いし、やたらと難しいのに挑戦する人を見るのもすげえ面白い。

自分がビジョンをたてて「よしこれならいける」と思ってから実際にやってみると全然うまくいかなくて途中で落っこちちゃって「えーなんでー?」と思いながらまた戦略を立てて。とにかく面白い。絶対またやりたい。

 

 

ちなみに腕の次に痛いのは肩甲骨です。

指もだいぶ疲れてるから初回はほどほどで切り上げないとキーボードが叩けなくなるので注意ですw

 

 

おしまい

 

 

インド人がハンバーグ食べたので裏切られた気持ちになった

 

明日同僚で飲みにいくんだけど、

急遽インド人の同僚もくることになって

僕がふと思いついて

 

「あ、じゃあ飲み屋も肉とか出さない方で考えないとね」

 

と言ったら同僚が

 

「いやアイツは何でも食べるし何でも飲むよ。ハンバーグとか食べるよ

 

と言った。

 

 

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それで僕は「そうか」と言ってそのときの会話は終わったんだけど

なぜか僕はインド人に裏切られたような気持になった。

勝手に。

 

 

調べてみたらインド人の肉食化は経済成長とグローバル化に準じて増えていて、現在のインド人の菜食主義者の割合は40%に留まっているそうだ。

なーんだそうなんだ。あ、いまの「なんだ」は「ナンだ」と掛けて言ったわけではありませんので悪しからず。

 

 

 

 

 

さっきの「裏切られたような気持になった」件についてなのですが、

これをもし僕がインド人、向こうが日本人だったとしたときに

 

僕「お前日本人なんだから納豆くうだろ」

 

日本人「いやーおれ納豆ダメなんだよねー。臭くて無理だわ。」

 

って言われたときの裏切られ感と同種であると想像した。

 

 

 

サッカー見ないブラジル人とかキムチ食べない韓国人とか

根暗なブラジル人とか。時間守るイタリア人なら見たことあるけどね。

 

でもそういうのって普通にあるじゃないですか。

僕だって日本人なのに相撲のこと全然わからないし

「やれ」って言われても出来ないし。

個人の好みとか趣向の問題でありながらそれに「裏切られた」と感じてしまう僕って頭の中で何が起こっとるんや、と疑問になった。

 

 

コード=こうでなくてはならない

 

今千葉雅也さんの「勉強哲学」を読んでるんだけど、その中に登場する「コード」という考え方が面白かった。

 

 

僕たちが普段生きている中で漠然と横たわっているコード(こうでなくてはならない)というものが存在する。電車でみんななるべく静かにしているのも一種のコードで、「暗黙の了解」を拡大解釈したようなものかもしれない。

「インド人は敬虔なので肉は食べないのである」という僕の強い思い込みは僕の中でのコードであってあるいは世間一般ではコードたりえないのかもしれないが、少なくともインド人の彼がハンバーグを食べた瞬間にその行為は僕のコードを侵害したのである。

(当然彼は何も悪いことをしていない)

 

この個人的なコード、を侵害されたときに人は不快感を感じるのではないかと思う。よく人が触れてほしくないことに不本意ながら触れてしまうことを「地雷を踏む」という言い方をするが、彼は間接的に無意識的に僕の「コードを踏んだ」のである。

 

 

 

コードを踏まれたときに僕はその瞬間は脊髄反射的に感情的な感想を持つが、しばらくして冷静になってみると「コードを踏まれたけどこれってひょっとして僕が異端で間違っているのでは?」という疑い / 批判的な目線=アイロニーを持つことになる。

現に僕はアイロニーによってインド人の食生活についてグーグル検索をかけて冒頭の知識を得るに至ったわけで。

 

以上のような経路をたどって僕はコードの侵害とアイロニーによるフィードバックを繰り返してものごとを学んでいるんだなあ。とにかくインド人がハンバーグを食べるのは全然変なことじゃないし、むしろ普通のことです。

 

 

ってところまで思いついた。 

オチはないぜ。

 

 

 

「勉強の哲学」、今むさぼるように読んでるけど

むっちゃ面白いです。ページが三色ボールペンで塗られまくってるくらい。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

僕も来るべきバカのために勉強しなければ。

 

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