襟を立てた少年

まだ間に合う 世界は素晴らしい

デザイナーの精度

 

お久しぶり。

 

 

 

 

 

いよいよ睡眠時無呼吸症候群が悪化してきてマジで死にそうだ。

 

 

 

 

毎晩サバイバル。朝「ふひょ!」って言いながら起きて、ぜいぜい言ってる。

 

 

 

 

 

寝てる時以外は基本眠い。

 

午前も昼も午後も眠い。

 

 

18時くらいから段々目が覚めてきて

0時頃にまた眠くなる。そんな毎日。

 

 

 

 

 

 

 

 

矜持という言葉について考えることが増えた。

矜持っていうのは要はプライドのことだ。

 

 

 

 

仕事をする上で大切にしていることは人それぞれだと思う。

 

 

 

例えば仲間と協力して何かを達成する瞬間が最高、とか。

業績をあげてとにかく給料を稼ぐとか。

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僕が仕事で一番気にしているのは矜持だ。

 

 

矜持がなければおしまいだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はデザイナーだ。

 

 

 

 

デザイナーはいわゆる「センス」を持っているとされているので、

自分の頭の引き出しにあるキラキラしたものをなんとかこねくり回して、

コンセプトとかビジュアルとか、一般人にもわかるように咀嚼して

皿に盛り付けるのが仕事だ。

 

 

 

 

 

デザイナーとして働く日々は

 

「お前そこそんな気にする必要ある?!?!」という瞬間の連続だ。

 

 

 

 

 

どう見ても同じにしか見えない赤色を延々と見比べたり、限界まで拡大して0.1mmの調整をしたり、一度せっかく作ったものをバラバラに壊して、またほとんど同じようなものを作ったり。

 

 

 

 

一般人からすれば「なんでこんなこと延々とできるんだ...」ということばかりしている。

 

 

デザイナーが身近にいる人はよくわかると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

デザイナーが働いているのを見たことがない人は

もっとこう、華やかな作業をイメージするんだろうな。

 

 

 

 

鮮やかなカラーサンプルを机に広げて、「グリーンにする?それともサーモンピンク?」なんて相談したり、あとは大きな白い紙にサインペンでシュッシュッとスケッチを書いて「こんな感じでいい?」って声かけたりして。

 

 

 

 

 

実際は違うぜ。

 

 

 

もっと地味で泥臭いことばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

だいたいデザインの一箇所が0.1mmずれているかずれていないかで、

そのデザインの良し悪しは変わるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんと変わらないのである。

 

 

 

 

 

 

わかる人にはわかるのかなぁ

いや、0.1mmは流石にわからない。

でも普通のデザイナーでもわからないよそんなの。

 

 

 

 

 

 

じゃあクライアントはおろか、プロでも見分けのつかない0.1mmについて

何を延々と悩んでいるのかといえば、

 

 

 

もう自分が納得するためなのだ。

 

クライアントとか関係ないんだよね。俺たち。極論。

 

 

 

 

 

 

デザイナーは納得したものを作りたいのだ。

 

 

ほとんど完成しているようにみえるものを指差して「もうこれでいいんじゃないの」と口出しすると大抵「いや何か気持ち悪い」とか「なんか納得いかない」と言ってウンウン悩んでいる。

 

 

客に「もういいよー」と言われても「もうちょっと」なんて言ったりする。

 

 

 

 

それはデザイナーの矜持がそうさせるのだと思う。

 

 

 

0.1mmを直してデザインがよくなるわけではないが、0.1mmが気になって延々と直しているような人間が作ったものはちゃんと美しい

 

 

 

 

ということなのだ。

 

 

あるいは少し言い換えると、

 

 

 

 

 

 

0.1mmは直しても直さなくても結果に影響はないが

0.1mmを「これでいいや」で済ませる奴が作ったデザインはそもそも大したことない

 

 

 

と言えるだろう。

 

 

 

 

デザイナーの精度はデザイナーの矜持によって担保される

 

 

うん、そんな感じ。

 

 

 

久しぶりに書いて楽しかったぜ。

おしまい

友人のロードバイクが盗まれた件

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自転車はいつも狙われている

 

 

 

 

 

表題の通り。

友人の自転車が盗まれてしまった。

 

 

 

 

自転車といっても

ロードバイクという自転車競技用の機材なので

何十万もする高級品である。

だから狙われるってわけだけど....。

 

 

 

 

 

盗まれたと表現したけれど

もちろん盗まれた現場を本人が

傍観していたわけではないので

本人の感覚からすれば

まずは「消えた」という感じだろうと思う。

 

 

そのときの感覚を想像すると

胸が痛むというよりはぞっとする。

 

 

 

 

 

そういうことが常に自分にも起こりうるという

自戒を込めた恐怖というよりは

今まで当たり前に傍にあったものが

忽然と姿を消すことがある

という残酷なリアルだったり

 

あるいは、人の所有物を

平気で盗む人間がいるという圧倒的事実が

恐ろしくなった。

 

 

かける言葉

 

 

 

 

 

 

 

盗まれた彼にはかける言葉がなかった。

 

 

それは他の仲間にしてもそうだろうと思う。

もし自分の自転車が盗まれてしまったらどんな言葉をかけてほしいかー。

 

 

考えても全然思い浮かばない。

僕ならおそらくショックで上の空になり、

どんな言葉をかけても響かないだろうと思う。

 

 

 

 

それ故にかける言葉がないのだ。

とはいえ。

声をかけずに普段通り過ごせばいいんだろうか。

なんだかそれも違う気がする。

それは意識的看過だ。

 

 

 

 

「ええ盗まれたんだ大変だね...見つかるといいね」

 

というような通り一遍の言葉をかけて、

あとは何事もないように過ごす。

あるいはそれは一つの最適解なのかもしれない。

 

 

でもそれはそれで僕は冷たさを感じる。

自分の自転車がなくなったことを過小評価されてると感じさせてしまうのではないかと思う。

実際には盗人に対して怒り、

彼に対して同情し、

一緒に残念に思う気持ちが強いのに

それを本人に放出しても当人は

余計落ち込むだけだろう。

 

 

 

 

 

そういうわけで僕はこうして文章を書いている。

困ったら大抵文章を書いて解決だ。

 

 

失恋しても嫌なことがあっても緊張しても

とりあえず筋トレして解決しちゃうマッチョと思考回路は同じだ。

 

 

 

 

 

 

さて、こういう高級なスポーツバイクを

盗むというのは100%転売目的なので

例えば「数週間後駅前に乗り捨てられてた」

なんてことはまず起きない。

 

 

自転車は転売される。

 

 

だからヤフオクやメルカリなど

ネット上のフリマサイトに自分の自転車の

機種名を登録しておいて、同名のものが出品されればいつでも調べられるようにしておく。

 

 

しかし友人の自転車を盗んだ人間は

「あ、自転車だ!盗んでやろう!」といって

飛びついてきた人間ではない。

 

 

 

なんといっても鍵が破られているのだ。

 

 

 

鍵といっても

黒電話の受話器のコードのような様式の

チャチなものなので

大型のハサミ型の機材があれば

女子高生でも突破できる鍵だが、

ワイヤーはワイヤーなので

文房具屋のハサミでは切れない。

 

 

 

つまり、日頃から自転車の鍵を壊す道具を持ち歩いている盗人に目をつけられた

と考えて間違いない。

 

 

 

要はプロの犯行である。

 

 

 

プロは駅前に自転車を乗り捨てたりしないし、

ヤフオクやメルカリに盗んだ自転車をそのまま掲載することもない。

簡単にばれてしまうからだ。

 

 

 

 

となれば彼らの手口は

 

「海外に売り飛ばす」

 

「バラバラにしてパーツごとで売る」

 

の2択になってくる。

 

 

 

 

 

 

 

自転車もバラバラにして「ハンドル」とか「ペダル」とかで売り出せば

探している人間の目を簡単に欺くことができる。

 

 

 

 

最後に自転車本体ともいえるフレームに別のパーツをあれこれつけて一年後あたりに売ればいいのだ。

「これ盗品ですよね」と詰め寄られても「違いますよ」と切り抜ければいい。

 

 

 

そういうわけで盗まれた自転車は

基本的に帰ってこない。

 

 

 

 

ゆえに慰めづらいところである。

 

「きっと帰ってくるよ」

とは絶対に言えないわけで。

 

 

 

 

 

友人も警察に「帰ってくるのは200台に1台くらいですね」と言われたらしい。

 

 

 

 

 

 

そういう都合で友人の盗まれた自転車が

帰ってくる望みはあまり高くはないのだけれど

万一にでも戻ってくることを僕は願っている。

 

 

 

 

最近はもっと頑丈な鍵とか、

あるいはGPS等で盗まれたり

落としたりした後で追跡できる機能を

持つ製品も市場に出回っている。

 

 

 

 

 

 

僕はもし自転車が盗まれたら

自転車が無事戻ってくるのは当然として、

盗んだ人間をこの目で見て、

あわよくば鉄槌を下さないと

気が済まない気がするので

発信機のようなものを

最近調べて検討しているところだ。

 

 

 

 

おしまい

 

 

 

 

 

図鑑ブーム到来

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図鑑ブーム?

 

 

最近「図鑑」を書店でよく見かけるようになった気がする。

 

 

 

以前は書店の図鑑といえば入学シーズンに

平積みされる植物図鑑や昆虫図鑑くらいしか思い浮かばなかったものだけれど

最近だと「元素図鑑」とか「リアルサイズ古生物図鑑」とか「ビジネスモデル2.0図鑑」とか「経済学大図鑑」なんてのもある。

 

 

図鑑の強み

 

そういう有様を見て「図鑑なんて要所だけをまとめた便利本なんて読んでも何も得られはしない。哲学図鑑を読んでソクラテスがわかるか?ニーチェがわかるか?きちんと原書を読まない事には意味なんてないのだ」などと一蹴するのはあまりにも簡単だが、

 

哲学について何の知識もない人間がいきなり哲学書の原書を読むのは到底不可能であり、入門書とか、知識学問のためのロードマップのような気持ちで図鑑を買い求めるのも良い事だし、そういうことができる流行がある事に僕は喜びを感じている。

 

 

図鑑っていいよね。

積ん読じゃないけど、持っているだけで自分がパワーアップしたような気分になる。

例えば花の図鑑を持っていれば、別に読んでいなかったとしても「こっちはいつでも花の名前を調べることができるんだからな」と強気な気分になることができる。

ちょっと本意とは逸れるけどニュートンも口にした「巨人の肩に乗る」という言葉通り、僕たちは全部を一から考えてみる必要はなくて、先人の発見した叡智・知識を学び蓄える事で本来自分が見るよりずっと高くからの景色(巨人の肩)と出会うことができる。

 

 

最近ではネットが発達したとはいえ、その情報の信憑性については個人に判断が委ねられている。特にwikipediaなんてものは調べれば調べるほどにアテにならず、最近はなるべく見ないように心がけている(総じて文字がつらつらと密集している情報の塊のようなものに人は知性を感じ、信じてしまうものなのかもしれない)

 

図鑑であれば最新のものを購入すれば情報は常に新しく、さらに出どころが明瞭で責任者が名前を出しており責任の所在が明らかである。匿名による意図的な情報の介入や悪意のある情報の編纂がないのだ。

 

さらにその情報が一貫して整理されていて、索引もついていて見やすい。

本は物体であるため重くて持ち歩きには適さないが、一番の優位性は「パラパラ読める」ことだと思う。

 

観光のような図鑑

 

僕はこれを便意的に「観光的」と呼んでいるのだけれど、行き当たりばったりに偶然出会う事に価値を見出すことができるのは図鑑ならではの強みだろう。

一つの花について調べて見たら次のページの花も綺麗で、そうして読み進んでいるうちに数ページ読み込んでしまったーというような経験をしたことのある人は存外多いのではないか。

 

 

つまりは図鑑は「調べるためのツール」として用意するのではなく、「綺麗な写真がついている分厚い読み物」として購入した方がハードルが下がると思う。

 

 

 

....とこのくらいの記事を書いておけば

自分に対して新しい図鑑を買う言い訳ができたような気がする。

 

 

 

おしまい

 

 

 

 

世界で一番美しい元素図鑑

世界で一番美しい元素図鑑

 

 

 

古生物のサイズが実感できる!  リアルサイズ古生物図鑑 古生代編

古生物のサイズが実感できる! リアルサイズ古生物図鑑 古生代編

 

 

 

 

仕事のようなゲーム、ゲームのような仕事

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23歳、突然ゲームに対する関心が死ぬ

 

任天堂から「ポケットモンスター 赤・緑」が発売された時が4歳の時で、

幼少の頃からテレビゲームばかりして育った。テレビゲームの歴史は

僕の歴史と平行に刻まれてきたのだ。

 

 

そんなゲーム好き体質はどこへやら

 

社会人になり、会社勤めをしてからほとんどゲームをしない人間になってしまった。

魅力的なパッケージは様々なハードからどんどん出ているのに

「やりたい」という意欲が湧いてこない。

 

 

 

 

「これが大人になるということなのか」という謎の感慨を抱いて

僕は余暇を散歩やお絵かきやスポーツに充てるようになった。

 

 

そんな中、先日youtuberがとあるゲームを実況していた。

 

その名は「Poly Bridge」

 

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車が対岸へ渡れるように橋を渡すシュミレーションゲームだ。

 


素人が橋作りに挑戦してみた 【Poly Bridge 実況 #1】

 

 

この橋づくりが結構シビアで、橋を作ること自体は

マウスでクリックしていけば誰にでもできるのだけれど、

橋が崩壊しないように強度を考えて建てなければならない。

 

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実況者が「これはどうすれば倒れずに済むのかな」と言いながら

ゲームを楽しんでいるのを見て僕は「これはもうほとんど仕事だな」

と思い、思ってからハッとした。

 

 

 

僕はきっと、ゲームをするように仕事をしているのだ、と。

 

 

ゲームのような仕事、仕事のようなゲーム

 

 

内線で相手に電話をして約束を取り付ける

協力会社にメールをして交渉する

金額を合わせて見積もりをつくる

提案書をパワポでつくる

会議でブレインストーミングをする

プレゼンテーション上達のために動画をみる

 

 

自分が普段やっている仕事のどの部分を切り取っても

僕はそこにゲーム性を見出す。

それは本来の意味とは違ってもゲーム脳と言えるのかもしれない。

 

 

 

 

僕たちは3歳児ではないので、どんなに新しい物事に直面しても

今まで経験したことを参照して活かすことができる。

 

例えば、プリモシュ・ログリッチというアスリートは

今までスキージャンパーとして活躍していたのにそれを引退して

自転車競技の世界に入り、今はツールドフランスで活躍している。

 

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グリッチ自転車競技の世界に入って、

スキーの経験を全て捨て去ったのだろうか。僕はそうではないと思う。

日々の食生活がパフォーマンスに影響を与えること。プレッシャーのはねのけかた。メンタルのコントロール。筋トレの手順。怪我しないためのルーティン。

スキーから自転車への転向で、今まで知らなかったトレーニングや考え方に

たくさん直面するだろうが、それを逐一「これはスキーでいうとこうだろうな」と過去の経験を参照して咀嚼することができるだろうと思う。

 

 

これは僕たちにしても当てはまることで、

過去の受験や就活の経験、友達と遊んだこと、部活を頑張ったことは

自分の中の経験として蓄積されていて、新しい物事にぶつかった時に「これはあの時のアレの似たようなことだな」と僕たちを助けてくれる。

 

 

 

僕にとってはおそらくゲームがそれになっていて、

準備をしていかないとボスは倒せないことや、

地道なレベルアップをすることでしか前に進めないこと、

チームでは一人だけが強くても生き残れないこと、

そういう一つ一つが日々の仕事に大いに役に立っているのだ。

 

 

そのゲーム脳のせいで、僕は多分

仕事中にゲームをしているような気分になっていて

逆にゲームをしようとすると

仕事をしているような気分になってしまうのだと思う。

 

 

結論

 

結論というほどのことを僕は書いていないのだけれど、

とりあえず仕事ばかりしていると疲弊してしまうので

遊ぶことで脳の違う部分を使うことが重要だ。

 

脳の違う部分を使うことが精神のリフレッシュや

仕事での新たなアイデア創出に繋がって、結果として

仕事のためになったりする。

 

ただ僕の場合、その遊びをゲームとしてしまうと

脳の同じような部分を使ってしまうようなので

ゲームではない別の何かで遊ぶ必要があるみたいだ。

 

パソコン見続けて、帰ってからネットゲームでパソコンを見てたら

目も疲れるしね。

 

 

 

おしまい

 

 

 

田舎オタクと東京オタク

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田舎オタクと都会オタク

 

www.jigowatt121.com

 

 

こちらの記事が面白くてスラスラ読んでしまった。

田舎オタクが都会オタクに嫉妬している構図である。

 

 

記事の趣旨としては

「都会オタクは自分の幸せをちゃんと噛みしめるべき」

みたいなことのようだ。

 

 

ちょっと関係ないかもしれないけど

僕はこの記事を読んだ時に「田舎のネズミと都会のネズミ」というイソップ寓話を思い出した。

 

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内容としては田舎ネズミが都会ネズミを食事に招待すると、都会ネズミが「こんなショボい食事を毎日しているなんて可哀想に。都会は最高だよ」と言って今度は都会の食事に招待するんだけど、都会は食事中に人間や猫がネズミを捕まえようとするので田舎ネズミは「こんな危ない場所はまっぴら御免だ」と言って田舎に帰るーというものだ。

 

この物語の教訓としては「幸せは人それぞれなので満足できる形や安心できる場所は異なる」というものだが、どうやらオタクはそれに当てはまらないらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は自分がオタクなのか自分でも決めかねているところがあって、その理由は

 

・いわゆるオタクに対する漠然とした嫌悪、俺は違うぞという意識

 

・オタクと自称するとガチオタクに攻撃されるのではないかという恐怖

 

なのだけれど、

まぁ推しの声優の発売日に秋葉原に走ったり握手会の応募ハガキを嬉々として書いたりライブビューイングでサイリウムを振っていればオタクだろうよ、

ということで僕は今日から東京都在住の「都会オタク」です。

 

 

 

僕がなぜイソップ寓話を引き合いに出したのかと言えば

これになぞらえて「田舎オタク」「都会オタク」という表現が気に入ったから。

あなたは「田舎オタク」ですか?「都会オタク」ですか?

 

 

 

この対極構図は「君の名は。」っぽくもあるのかな?

あれの場合は「田舎高校生」「都会高校生」だろうか。

 

 

 

都会オタクは自分のアドバンテージを自覚すべき

 

そだねー。 、と思う。

いや、ちょっと前から思ってたけど都会オタクってすごい捗る。

田舎オタクは「自分がオタクである」という理由だけで転職して東京で生活した方がいいのではないかと本気で思う程度に、東京はオタクに優しすぎる。

 

ゲーマーズとらのあなアニメイトなどが点在していて、発売日にきちんと店頭に商品が並ぶし、何ならフラゲもできる。店頭特典が充実しているし、欲しいものがきちんと手に入る。

 

 

僕は「好きな声優のアルバム今日発売かぁ。ちょっと時間かかるけど行くかぁ」と家を出て歩いて20分で秋葉原に行き、CDを購入して帰ってきた。

帰ってきてから「これ田舎オタクが聞いたら怒り狂うレベルで贅沢だよな」と痛感したのだ。

 

 

僕は「田舎でスローライフしたいなぁ!」という欲望はあまりないけれど、自分が都会に住んでいるアドバンテージにはきちんと感謝して、変なところで田舎オタクを刺激しないように気をつけなきゃな、と気を引き締めるのでした。

 

 

おしまい

 

 

未来がやってきても

 

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最近はIRだのARだの、VRだのiPSだの

ドローンだの自動運転だの

ずいぶんと未来感を醸し出してきているけれど

 

 

2018年になっても電車で酔っ払いは吐くし

来週の天気はわからないし

相変わらず人はいつか死ぬ

 

 

どんどん文明が発達して

おまけにそれが加速しているものだから

僕たちは一体どこへ連れて行かれてしまうのだろうかと

不安になることもあるけれど

 

きっとこの先どれだけ未来になっても

やはり僕たちはケータイをトイレに置き忘れるし

人の陰口に傷つくし

恋をするのだろうと思う。

 

 

そういう「なあんだ」感が僕は結構好きで

結局ベースの人間っていうのは全然進化しないっていうのは

ある意味救いなのかなと思うようにしている

 

 

 

おしまい

仕事において「誰のせい」とかなくね?

 

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仕事で「誰のせい」とかなくね?

 

 

仕事中にあれこれ修正が重なって

つい言い返したら「え、私のせいですかね....」みたいに言われて

「そういうことではなくてさ!」ともどかしくなった。

 

 

 

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本当にその人のミスかは誰にも観測できない

 

 

例えばあるペーペーがミスをしたとする。

 

 

そのミスはそのペーペーのせいだろうか?

僕はそうは思わない。

 

 

 

そのペーペーはそもそもきちんと説明を受けたのか?

教育者は誰で、管理者は誰なのか?

 

チームで仕事をしていたなら一緒にいた人間も

そのミスが起きないためにアクションを起こせなかったのか。

 

もっと言ってしまえば、

そのペーペーが驚くほど能力がなくて、向上心もなくて、

十分な教育とトレーニングを与えて、全体でミスがないように

再三確認してもまだペーペーがミスを繰り返していたら

それはもはやそいつを採用した人間にも非があると僕は思う。

 

 

誰のせいとか、僕はないと思うし、

仮にあったとしても興味がない。

 

それで仕事が進むわけでも改善されるわけでもない。

誰かのせいになるということは、誰かのせいではなくなるということだ。

 

 

仕事は相手あってのもので、大抵の仕事は人間と人間が関わり合って生まれるものだ。

そういう中においては何にしてもみんなのせいで、組織の中で働いている以上ミスの反省が全体で行うべきだと僕は思う。

 

 

ただ漫画でも描いてある通り、責任の所在を明らかにしないといけない時はあるだろう。問題の発端は誰なのか、プロセスの中の誰のパートでミスが起きたのか。そういうことをはっきりさせて置かないと記録が残せなかったり示しがつかなかったりすることは確かにある。

 

ただ、今回言っている「誰のせい」というのはそれとは別問題だと思う。

漫画にしてちょっとはもやもやが晴れた気がする。

 

 

 

おしまい