襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

引っ越しでもしようかな、と思った

 

引っ越しでもしようかな、と思った。

 

 

 

今月の8月に前の家を出て、今のところに移ってきた。

 

ああ、今の家に来てからまだ4か月経ってないのか...。

今のところに大きな不満もないのに引っ越しをするってあんまり普通じゃないのかなぁと思って記事にしようと思った。

 

 

 

僕はたぶん引っ越しに対するハードルが非常に低い。

つまりフットワークが軽い。

 

 

同じところに住み続けるのにあまり魅力を感じない。そりゃあ家庭を持ったりすれば全然事情は変わるだろうけど、そういう風に根を下ろすまでは根をおろしたくないと思う。

 

 

 

 

その時々に最適なところに住みたい。

 

例えば、僕は今会社まで自転車で10分のところに住んでいる。

ここを選んだ理由は「12月に繁忙期がくるから」だ。

実際今年の繁忙期もなかなかハードで、毎日0時に帰ってたりしていたので家が近くて本当に助かった...。家賃は高かったけれど。

 

「繁忙期が来るので備えるために限界まで近いところに引っ越しました」と会社の人に言ったら冗談だと思われた。冗談じゃないのに!

 

 

 

それで、その繁忙期も終わったことだし引っ越そうかと。

今度は逆にまあまあ遠いけど家賃が安くて、もうちょっと広くて、街に広めの公園があるところ。具体的には家賃4万円前半を狙っている。東京から離れちまえば十分達成できると思う。

 

引っ越しが苦じゃないのは持ち物が少ないっていうのも大きい。

4か月前に引っ越したときは軽自動車1回ですべての荷物を運びこんでしまった。持ち物が少ないので段ボール梱包は1箱もしなかった。

 

 

 

最適化。

いつも自分の状況に応じて最適化していきたい。ランニングするならランニングシューズを履きたいし、日差しが強ければサングラスをかけたい。ライブに行くなら動きやすい格好がいいし、寒い土地に行くならダウンを着込みたい。

 

 

それと同じように住むところを選びたい。

究極の理想を言うなら春は桜がきれいな場所へ秋は紅葉がきれいな所に住みたい。

「いやそれ旅行で住ませたらええがな」ってその通りなんだけど、僕にとって住むことも旅行することも変わらない。正直、実家をでたときからずっと旅行している気分だ。

 

 

 

移動し続けたいし色々な街の表情を楽しみたい。

旅行で通り過ぎるのではなく、数か月じっくり本当にそこに住んで、風土を楽しみたい。そうやって住むこと暮らすことそのものを楽しむように生きたい。

そんな風に考えていたら、気づいたらこんなに気軽に引っ越しするやつになってしまった。

 

 

 

とりあえずまだ引っ越し先は明確に決まっていないのだけれど今のところを退去したい旨をオーナーに伝えた。今は気が向いたときにパソコンをカチカチして次の家を探している。シェアハウスがいいな。また。

シェアハウスは家電でもなんでも最初から揃っているから楽なんだよね。

 

 

バックパックしているときは行く先々で宿のクオリティーを楽しんだ。

コテージの外にプールがあるような宿に泊まったこともあるし、鍵が壊れていておまけに毛布に蜘蛛が10匹くらい住み着いている宿にも泊まったことがあるが、その都度の便利と不便を僕は平等に楽しんだと思う。

 

つまりは便利とかじゃなくて、暮らしが楽しいかどうかが肝心なんだと思う。

実家暮らししている人も身の回りにたくさんいて、それはそれで理解できるのだけれど、「こっちもこっちで楽しいぞぉ」と言ってみたかったりする。

 

 

 

 

おしまい

 

そう、生活家電ってあんまり好きじゃないんだ。

エアコンとか冷蔵庫とか電子レンジとか洗濯機とか。「それって"おれの"である必要ある??」って。行く先々でそこのあるものを使えたらそれで充分じゃんって思うな。

 

 

 

 

 

 

フィルムのような人格

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フィルム

 

「フィルム」という言葉は、手前と後と、どちらにイントネーションを置くかによって感触がずいぶん変わるなと思った。

 

「フィ」を強く発音すれば映画っぽいし、「ルム」を強く発音すれば写真っぽい。

 

これはあくまで僕個人の感触として。

これから書くことはどちらかというと「フィ」のほうにイントネーションを置くから、そういう心づもりで読んでくれたらいいかもしれない。

 

 

 

 

フィルムのような人格

 

 

僕は牛乳を買うために近くのローソンに向かって歩いていた。

あんまり元気がなくて陰鬱な気分だった。特に何がそうさせるでもなく。そういう日って誰だってあるだろ?別に理由はないんだけど、なんか「はあ」みたいな気分の日が。

そういうとき僕は牛乳を飲むんだ。

 

 

 

 

たとえば、こんな風にたまたま陰鬱な気分の僕に初めて会った初対面の人は、僕のことを「暗くてネガティブな奴だな」と思うだろう。

思われても仕方がない。

 

 

 

しかし、僕はいつも陰鬱な状態ではない。

むしろ日ごろは楽観的で元気があって、ポジティブな感じだ。ゆえに僕のことをポジティブだと思っている人が身の回りには多い。

 

つまり、全体的な評価として僕がポジティブな人間だったとしても、たまたま陰鬱だったときの僕に出会った人は僕のことを「ネガティブな人間」だと思ってしまうということが十分ありえるのだ。

 

陰鬱な僕に対して「今日はたまたまネガティブだっただけで日ごろはポジティブな人間なのかもしれない。」みたいな寛容な判断を下してくれる初対面の人は少ないだろう。

 

 

振る舞いは連続する

 

つまりは確率の問題なのだ。

 

僕はある1週間において、月曜日は普通で、火曜日は明るく、水曜日は陽気で、木曜日は陰鬱で、金曜日は怒りっぽくて、土曜日は穏やかで、日曜日は情熱的なのかもしれない。こんな風に日々は続いていって、まるで連続してコマ送りされる映画のフィルムみたいにして僕の人格を形成するのだ。

 

連続することで表象する、フィルムのような人格。

 

 

 

それはパラパラ漫画のようなもので、1つ1つは静止画だったとしても、それが連続することによって動きを表現するのだ。

 

 

つまりはそれが人格だ。

 

スコット=フィッツジェラルドは「グレートギャツビー」において「もし人格というものが人目につくジェスチャーの途切れない連続だったとしたら」という言い回しをして見せたけれど、僕が言いたいのはこれにとても近い。

 

 

面接が得意な人は、あらかじめ自分の人格フィルムの中から「良い面」を抜粋して上手に編集することによって、まるで映画の予告編でもつくるみたいにつなぎ合わせて披露して見せる。

面接が苦手な人にはこれが難しいのだろう。

 

 

 

牛乳を買ってローソンを後にする。

僕は身の回りの人のことをどれだけ知っているのだろう。

今日牛乳を買ったときの店員さんはまあまあ感じが悪かった。僕がレジに牛乳を置くと、面倒な家事を押し付けられた子供のように口の端を少しさげて、ニワトリを処理するようにして僕を捌いた。

 

 

ちぇっ、と僕は思ったが、その時の彼にしても、彼の人格というフィルムの一瞬の一コマに過ぎない。ひょっとしたら毎朝ボランティアにいそしむ善良な市民かもしれないし、親ヘの仕送りをしながら学業に励む苦学生かもしれない。

知らんけども。

 

 

無限に連続する人格のほんの1カットだけを見てその人の人格を判断するのは、例えるならリビングで親が観ている映画を一瞬横目で観て「つまらなさそう」と判断するくらい勿体ないことだ。もったいないというか、あまりに表面的な生き方じゃないかと考えてみる。

しかし同時に、僕たちは視界に入ったすべての映画をレンタルして山積みして、一番上から順番に丁寧に観ていくことは出来ない。人生の時間を考えれば、時間がいくらあっても足りないからだ。

 

 

だから必然的に、さっき僕がコンビニの店員さんに「ちぇっ」と思ったように、一瞬の一コマを見てその人を判断せざるを得ない。ことがあまりにも多い。

対面において寛容に相手の人格を判断して吟味する機会を僕たちは初めから喪失しているのかもしれないとすら思う。

 

 

 

さて、僕が80%の確率で陽気な人間だったとするなら、単純計算で80%の初対面の人は僕のことを陽気だと判断するだろう。そして同時に20%の人はどうしても僕のことを陰気だとか怒りっぽいと判断するだろう。

それは仕方がないことで、すがすがしさすらある。

 

 

そんなに誤判定が嫌なら、何度も相手と接触して、本来の人格をきちんと見てもらう必要がある。例えば家族が落ち込んでいたら、「何かあったのかな」と思うはずで、「暗い人だな」とは思わないはずだ。それは長年一緒にいることで家族の様々な面を見ているからに他ならない。「今日はたまたま気分が悪かったんだな」と思ってもらえるのは、蓄積された人格に対する「信用」があるからだ。

 

人はサイコロのように様々な面があって、おまけに日々色んなことがあるもんだから毎日サイコロを振っているようなものだ。そんなことは誰だって頭ではわかってることなのだけれど、僕たちは日々様々な人と会って対面するのでオートマチックに相手を判断するのに慣れてしまった。脊髄反射的に「この人はこういう人なんだな」と判断しがちだ。

 

 

 

どうあがこうと20%の確率で人に悪印象を与えるのであれば、無理していつも良い面を見せる必要はない。という結論に至り僕はほっとする。

 

しかし同時に!大切な人に対しては振る舞い続けることをやめてはいけない。継続が肝要なのだ。陽気な面を、優しい面を、弱い面を、ダサい面を、怒りっぽい面を。何度も何度でもサイコロを振って、出てきた面を楽しみながら、それを相手に見せる"勇気"が必要なのだ。それが理解されることであり理解するということなのだと今は思う。

 

 

最後に、この文脈には必ずしも合致しないのだけれど、今どうしても引用したいお気に入りの詩がある。ベニシア=スタンリー=スミスの言葉だ。

 

 

「人生は嵐が通り過ぎるためにあるのではない。雨の中でもダンスを踊れ」

 

 

 

 

今は家で牛乳を飲んでいる。

おしまい

手紙を書くのが楽しくてたまらない

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手紙が好きで。

 

アッ 正確には文通が好きなのか。

日々、文通相手を探して生きているけれど、このご時世そんなものが見つかるはずもなく、とにかく住所を知っている友人に手紙を出している。一方的に!

 

 

 

 

手紙を送ると数日後に「手紙届いたよ!ありがとう!」というラインが返ってきてたいていそれでやり取りは終わる。手紙でのお返事はない。一方通行なのだ。メルマガかよ!

 

 

ただそういうのにも慣れたので、本当に一方的に5,6人くらいに手紙を書く日々だ。そういう中で手紙を返して「文通」を成立させてくれる友人は非常に貴重で、貴重ゆえ大切にしなければならないと感じる。

 

 

 

文通の何が好きかというと、非常に漠然とした感情なのでうまく言えないのだけれど、それは点数を計算しないテニスのラリーに似ている。

 

点数を計算しないから気楽で、しかし相手がボールを取って返してくれなければ続けることが出来ないので、きちんと相手の返しやすいようにボールを打たなければならない。

 

 

 

そして同時に、僕はラリーにおいて色々な打ち方を試すことが出来る。回転をかけてみたらどうだろう、ここでもっと腰をひねったら綺麗に打てるだろうか?そんなことを試行錯誤できるのは相手がいるからに他ならず、これは意外と文通中にしかできない仕業だ。

 

例えば、日記では相手がいないのでモチベーションが保てないし、仕事中にお客さんにメールを打つのに表現方法を試行錯誤するような機会はない。

 

 

 

 

使ってみたい言葉。

 

「凄惨な」「講釈を垂れる」「筋合いがない」「お鉢が回ってくる」「おしなべて」そういうのを僕は文脈に取り入れようと汗をかく。手紙を書いているときに僕はそういうことを考えている。

 

 

 

考えていながら、それは読みやすく、受け止めやすく、返す気になる内容でなければならない。ただでさえ僕にとって文通をしてくれる人は絶滅危惧種なのだから。

 

 

 

 

 

そっけなくて、さらっとしていて、それでいて気持ちがきちんと乗っているような、たとえるならコーンポタージュのような文章を書きたい。

このブログにしたってそういう気持ちで書いていたりする。

 

 

 

おしまい

高い買い物をしたい衝動と戦うあなたへ

今週のお題「今年買ってよかったもの」

 

買わなきゃよかったものばっかだ!コンチクショー!!

 

 

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っていうのはさすがに冗談としてw

けっこう浪費家なところがあって、

僕はシンプルライフに身を置くことで余計なものを買わないように気を付けている。

気を付けてはいるけれど日々やってくる買い物衝動...。それにどう対処しているのかについて書いておく。

 

 

 

高い買い物をしたい衝動

 

特にたまにやってくる「高いもの欲しい」衝動は本当にやばい。

まず何がやばいって、欲しいものがマジで高いんだ。iPhoneXとか10万以上するし、新しいビアンキの自転車は35万する。Beatsのヘッドフォンもいいやつは5万円するし、今欲しいスニーカーは3万はくだらない。

 

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そして同じくらいやばいのが、欲しくなった途端に「なぜそれが必要なのか」という理由を自由自在に生み出してしまうことだ。

 

 

「これがあればこれからもっと便利になるのに」「勉強するのにも使えるし」「っていうか今月めっちゃ頑張ったし!」「売るときに結構高く売れるからすぐ売ればほとんど痛手はないのでは??」「今僕が持ってるのは古いからなぁ....。」「これ買ったら明日から頑張れる気がする」 エトセトラエトセトラ....。

 

 

 

いやいやいや!

 

 

でもいらなくね?

いらないんだよね、本当は。わかってる。

 

だってその衝動がくる前日は全然欲しくなかったんだもん。

それどころか、存在さえ知らなかったりして。だから、買うべきじゃないのはまず間違いない。そんな衝動の理由を信じて高価な買い物をして今でも唯一後悔してないのは.....15万のロードバイクだけかな...。

 

 

 

 

 

高い買い物=それそのものがストレス

 

今ではほとんどのものを手放した。

レコードプレーヤーもノイズキャンセルヘッドフォンもタブレット端末もMac Bookも。

 

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お金がなくなってしまうのを無視しても、高価な買い物は僕にとって無駄な徒労に終わることが多い。まず、「高い金を払う」というストレスがある。

これは、このストレスを快楽に感じちゃってる自分もいる。「こんなに高い買い物しちゃったぜ」っていうドーパミンが出ている感じがする。まさに買い物中毒のそれだ。

 

同時に「こんなにお金使っちゃっていいのかな..」というストレス。頑張って稼いだはずのお金がぽんと音を立てて消失してしまう空しさがやってくる。

 

 

 

 

 

買い物したって決して満たされないこと、知ってるくせに

 

買い物して、消費して幸せになろうとしてるんだけど、

ほんとはほんとは!ほんとうは知ってるんだ。

買い物じゃ幸せになれないって!

 

 

 

 

高度経済成長期の日本だったら、確かに僕たちは買い物で幸せになれただろう。

テレビやエアコンや冷蔵庫がステータスでさ。働いて働いて、その分日本が豊かになる実感があってさ!

 

でも今はそういう時代じゃない。iPhoneXは1週間くらいしか僕たちを豊かにしないし、ものを買うために働くような文化もない。

 

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幸せね。充足感とか。

みんなだって本当はわかってるだろ?

本当はさ、今持ってるものをメンテナンスしたりさ、友人家族とおしゃべりしたり、公園をお散歩したり、趣味に没頭してみたり、応援してるアーティストのCDを心待ちにしたり、新しい趣味を始めたり。

なんか、幸せってそういうことじゃん。

 

 

 

 

これは僕の場合だけなのかもしれないけど、買って1週間するともう興味を失っている自分がいる。僕がしたかったのは「高価な買い物」であって、それそのものがどうしても必要だったわけではない。ただ、買う前には「それがなければ困る!」という言い訳が視界を覆っているので理性で購入を検討する余地すらないのだ。

 

 

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殺し文句「いらなくなったら売ればいいし!」

 

例えば、BOSEノイズキャンセリングヘッドフォン。

数年前の正月にたまたまお金があって、たまたまヨドバシにいて、たまたまBOSEコーナーにいた。このとき脳内に溢れてきた「言い訳ノイズ」は今でも忘れない。

 

 

「そういえば今使ってるイヤホン、もう2年くらい使ってるなぁ..。だいぶへたってきた、ような気がする。」「落ち着いて家で音楽聴くときもイヤホンだと寂しいな。ヘッドフォン一つくらいあってもいいかも。」「これ畳んでケースに入れられるんだ。じゃあ家でも使えるし外でも使えるな!」「そういえば来月旅行だったな。飛行機とかでもノイズキャンセルって結構いいかも。」「ヘッドフォンがないから今まで英語の勉強にはかどらなかったのかもしれない。」「いらなければ売ればいいし!」

 

 

この最後の「いらなければ売ればいい」っていう考え方は本当に曲者で、確かにその通りだっていうのが非常にやっかい。

 

(じゃあ買うなや!)

 

例えば10万円のPCがあったとして、「たけえ」って思うんだけど、後からメルカリか何かで売ってしまえば5万円くらいにはなったりする。そうなるとこのPCって10万円じゃなくて5万円なのでは...??

車だって家だってみんなそうやって買ったり売ったりしてるわけで。これはこれで考え方としては正しい。そして高い買い物ってそういう考え方しないとそもそも買えないような買い物だったりする。

 

 

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でも売るくらいなら買うなよ!!

って言われたらそれまでで。そもそもそうやって売ったり買ったりしてるのにも時間はかかるし、ストレスだってかかってる。そんな商品でお手玉してる時間があったらほかにやるべきことがあるのでは?スニーカーを毎月買って、飽きたらメルカリでせっせと半額くらいで売りさばいたりしてさ、いや、その時間で今持ってる主力の革靴磨こうぜっていう。

 

買い物に夢中になっているときは楽しいのだけれど、僕の経験で言うとそういうときはたいてい今持っているものがおざなりになってる。例えば読みかけの本がたまっており、時計の電池が止まっていて、「いつか修理に出さないとなぁ」って思っていて、部屋は散らかったままだった。

 

 

結論

 

結論っていうか、現状の僕の、買い物衝動に対する最終兵器。

欲しいものが出てきて、も~欲しくて欲しくて仕方がなくなった時。

いろんなそれを買うときの口実が噴出して、あたかも「もうそれ買うしかないじゃん!」ってところまで来たときに自分自身に一言。

「自分に自信がないのでは?」

 

「自分に自信がなくなったときに、それを手っ取り早く穴埋めするために、高価な買い物をするのでは?」

 

自分が頭悪いなぁって落ち込んだ夜に新しいPCが欲しくなるのでは?

おれってかっこ悪いなぁってつらくなった時に新しいスニーカーが欲しくなるのでは?

自分って個性ないなぁって嘆いた瞬間に apple watchのサイトを覗いているのでは?

 

 

 

買い物衝動が出ているときは、間違いなく自分のメンタルに何かが起きている。

海外の絵本にでてくるチーズのように、僕たちにはあちこち穴が開いていて、それを僕たちは気にしてばかりだ。それは身体的特徴だったり、仕事での能力だったり、異性としての魅力だったりする。それにやけに目が行ってしまう瞬間!そのときに、あたかもすぐにそれを埋めてくれそうなものが欲しくなってしまうのではないか。

物質では決して埋められないと、本当はわかっているのに。

 

 

そういうわけで、僕は買い物の衝動にたいしてこう尋ねるんだ。

「でもその欲望って、もとはと言えば自分に自信がないからだよね?

だとして、あなたがするべきなのは買い物ではなくて、今日この瞬間から始める、地味な努力なのでは?」と。

 

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おしまい

公園のエネルギー

 

会社のお昼休みの放送が流れてもちっとも食欲が湧いていないことに気づいた。

胃に砂でもつまってるんじゃないかというほどの、ずっしりした不快感。

変なものを食べた記憶もないのだけど....。

 

公園に行こう。そう思った。

 

 

 

公園のエネルギー

 

僕は通常1日に2回公園を訪れる。

朝と昼。朝は出社前で、公園は会社とも駅とも違う方向にあるので、出社するときに公園から歩いていってほかの社員に会うと「なんでお前そっちから来るの?」と訝しがられる。一度「公園に行ってました」と回答したらますます理解不能というリアクションをされてしまったので、それからは「家がこっちで歩いて通勤しているんです」と答えるようにしている。

 

昼は通常、どこか定食屋で昼ご飯を食べてから、残りの10分とかを使って公園を歩く。大抵は公園を縦断するだけなのだけれど、わりとそれでも僕の精神は回復する。

 

 

 

今日はちょっと本格的に回復しないとやばいぞと思って、コンビニでおにぎりを買って公園へ直行した。ソメイヨシノの木の下のベンチでおにぎりを頬張った。

僕は公園のどこが好きなんだろう。かなり漠然とした「好き」という感情なのでうまく説明できない。それは、塗装がはがれたジャングルジムだったり、紅葉が終わりかけた山桜だったり、すっかりただの「木」になってしまったきんもくせいだったりする。あるいは、ベンチで目をつぶって音楽を楽しむサラリーマンや、半ズボンで走り回る子供たちを見ていても心が休まる。

 

 

ここには余暇がある。と僕は思った。

あるいは言いなおせば、「余暇を共有している」のだ。

 

 

ちょっとした隙間のような時間。安息。休憩。一息つく場所。

ここに来て、寝るなり、遊ぶなり、考え事をするなりして、普段いる日常・社会から一瞬だけ離脱できるところ。それを、僕たちは公園で「共有」しているのだ。

 

 

映画を一人で見るよりも、映画館で見知らぬ人と大勢で見るときの高揚感のような。ライブ感ともいえるかもしれない。赤の他人同士が、色々な目的があって同じ場所に集まっているけれど、結果としてみんな「自分の時間」を過ごしているのだという一体感。そういうものを僕は勝手に感じ取って安心するのである。

 

 

僕は朝も昼もそうだけれど(場合によっては夜も公園に訪れる!)公園にある木を観察して歩く。十月桜や、山桜やしだれ桜(この公園には驚くほど様々な種類の桜が植わっている)の決して派手ではない紅葉を一本ずつ確かめて冬の到来を目で感じるのだ。

 

 

 

前も書いたけれど、今は山桜の紅葉のラストシーズンだ。

会社の傍の山桜の紅葉ももう半分近く散ってしまっていて、

最後の見ごろとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

公園で遊ぶ子供が、水飲み場でいたずらをしようとしている。

蛇口をひねって水をたくさん出して、それを手で押さえて水圧で水を噴射しようとしているのだ。その子の母親が遠くから「ケンちゃん駄目だよそんなことしたら!」と叱った。ケンちゃんはバツが悪そうに「はあい」と答える。

最近の子は聞き分けがいいんだなぁ、なんて勝手にがっかりしていたらその直後ケンちゃんは蛇口を小さな手のひらで力いっぱい抑えこんで水をまき散らし、自分もびしょぬれになってしまった。

 

カンカンになってケンちゃんのところへ走っていくお母さん。びしょびしょの服でケラケラ笑いながら逃げ出すケンちゃん。

 

それを遠巻きに眺めながら「よっしゃ!」などとわけのわからないことを思っているうちに休み時間が終わりかけていて、あわてて会社に戻るのであった。

 

おやおや、何が言いたかったんだっけ。えーっと、公園最高!

 

 

 

 

おしまい

測量野帳10冊パックが届いた!

 

風がどんどん冷たくなってきましたね。

僕は自転車で会社通勤しているのだけれど、そろそろ手袋がないと

手が真っ赤になってキーボードが打てなくなってしまって。

 

最近はちょっと早めに家を出て、会社の近くの公園で自販機のホットコーヒーを飲みながら紅葉を見るのが楽しみです。山桜の紅葉が本当に綺麗で.....。

会社の人とランチに行って、食べ終わって会社に戻るときに「ちょっと公園寄りましょうよ!ちょっとだけ!一瞬一瞬一瞬!」といって公園へ遠回りさせてもらってまた紅葉を眺めたりします。だいたい連れてこられた会社の人は「ふうん」とか「そうだね綺麗だね。寒いから戻ろう?」って具合なんです。もったいないなぁ...。

 

 

測量野帳10冊パックを買いました!

 

 

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買ってしまった....。くふふふ。

 

モレスキンを「卒業」して、測量野帳に出会って2か月、3冊目の野帳に入って「これはいける」(?!)と思ってAmazon測量野帳10冊パックをポチッた。

 

 

 

いや...まだ3冊目なんやし無理せんでも1冊買ったらええがな...。

 

って思ったでしょ!

すごくお得なのですよ。本来210円の野帳が170円。

僕のペースだと1か月で1冊使うので、毎月ロフトに買いに行くとですね~~~絶対余計な買い物しちゃうんですね~~~。しかもロフトがある街まで、最寄で往復300円だとしたら実質野帳が510だからね!買いに行く時間も馬鹿にならないと。

 

 

 

さてさて、ぽちって2日後。

 

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やった~~~!

 

 

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包装はこんな感じ。

当ブログは手帳10冊パックの包装紙を公開する非常に珍しいブログになります!

それにしても無駄のない包装だな...。ぎっちりして重たい。羊羹みてえ。

 

 

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びりびり!と開けると野帳10冊とご対面。

当たり前だけどびっちり入ってる。すごいなぁ。素敵。

手帳でもノートでも、同じものをそろえて並べるとすごい素敵な感じになるよね。年月の積み重ねみたいなすごみが生まれると思う。僕は1か月に1冊だから、これは10か月の手帳になるんだ。そう考えるとわくわくしてきてしまう。

 

 

 

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う~んどんな撮り方をしてもすてきだな...。1冊1冊、僕はどんなことを書くんだろう。あとから見返した時を今から想像する。

 

 

 

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古い野帳はこんな感じ。角の摩耗具合が好き。

 

 

 

 

 

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今使っているのは父から貰った水色の野帳

水色もやばいわぁ..。いつもはレベルノートっていう、罫線が入っているタイプを使っているんだけどスケッチブックノートもこれはこれで非常に使いやすかった。何ならスケッチブック10冊パック買ってもよかったかも..。と一瞬頭をよぎったが今目の前にレベルノートが10冊あるのだから笑 あとから考えても仕方がない。

 

 

 

 

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野帳はスケッチがすごい捗る。

ほどよくするするした紙面に油性ボールペンがたまらなくて

線が縦横無尽に走る感じ。

 

 

また野鳥のいい使い方があったらお伝えします。

そういえば上野国立科学博物館にオレンジ色の野鳥があってだな....。

 

 

 

 

おしまい

うわさ話は魚のように

 

 

うわさ話に尾びれ背びれがつくのだから、

うわさはきっと魚介類なんだろうなと昔から思っていた。

 

前に読んだ本で、うわさ、を発信する力によって

猿は人間に進化したという話があって面白いと思った。

 

「あっちの森でばななが取れる」とか、「向こうにはライオンの群れがいるぞ」といった情報交換から、あるいは猿の群れの中で「あいつは強欲だ」とか「あいつは裏切る」といった話をする中で、そのコミュニケーションの力によって猿は繁栄して、ほかの種類の猿を滅ぼしていった、とかなんとか。

 

 

 

 

うわさ話は魚のよう。

もうちょっといえば、魚の影のようだ。いるんだろうけど、うまくは見えない。

自分の噂話って当然なかなか自分には入ってこないから、普段僕たちは噂話なんてされてないような顔をして生活しているけれど、実際には世の中は噂話が満ちていると思う。それはもう、水のように。

 

 

うわさが魚なら、人間関係は水だと思う。

学校とか会社のようなコミュニティーは利害関係があまりにも密なので、当然人間関係の線もあちこちに張り巡らされていていかにも魚が泳ぎやすそうじゃないですか。

 

 

僕が「仕事きついなぁ」とつぶやいたことで、翌週には尾びれ背びれがついて「あいつ会社やめるらしいよ」という話に発展してたりする。

 

 

それはそれで恐ろしいことなのだけれど、結局噂は噂で、それ以上でも以下でもない。つまりは警戒するに越したことはないが、気にするには馬鹿馬鹿しいのである。

 

 

 

うわさ話を交換してやり取りする場は飲み会だったり喫煙所だったりするが、これはさしずめ釣り堀だろうか。良い魚を釣ったと自慢したくて、ありもしない大きな魚を粘土でつくって自分で釣ったふりをしてみたり。

あるいは、人が釣ってきた魚を自分のバケツにいれて、自分がとったかのように宣伝することもできるかしら。

 

 

 

この話に結論はないけれど、噂話をたくさんされてしまう人はいつだってミステリアスで、物語の主人公だ。そして噂話ばかりしている人は、主人公にはなれないのかもしれない。

 

 

 

 

おしまい