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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

「トイレットペーパーの芯に般若」事件のつづき

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前にお伝えしたように我がシェアハウスでトイレットペーパーの芯を誰も捨てない問題が深刻化しており、解決策として僕が散らばったトイレットペーパー全てに般若を描き込んだところ翌日全て無くなっていた。という事案がありました。

 

andy0330.hatenablog.com

 

この話には続きがある。

 

トイレットペーパーの芯が一掃された翌日、トイレに行こうとしたら扉にメモが貼られている。「トイレはきれいに使いましょう。公共の場所なんだから。」みたいな注意書きが書いてあった。筆跡的にイタリア人によるものであった。ちなみにトイレットペーパーの芯を捨てずに放置してたのはイギリス人。

散らかすイギリス人→それに落書きをして茶化す日本人(僕)

→それを全部片付けた上で警告文を貼るイタリア人

という図式が出来上がった。ちなみに我がシェアハウスには韓国人もいるが、彼の部屋だけトイレがついているので彼は公共のトイレは使用しないのだ。だから今回の件には最初から関わりがない。それにしてもイタリア人がそんな公共のトイレについてとやかく言うとは思わなかった。いや、イタリア人だからとかじゃなくて、全然シェアハウスにいないので。大学の交換留学生だかで、ずっと研究で外に出ていてたまに深夜に足音が聞こえる感じがするくらいで、そもそも1度しか顔を合わせたことがない。「お前いたんだ」くらいの感じなのだ。こちらからすれば。

 

そもそも3ヶ月前にイタリア人がやって来る前から僕とイギリス人はこのトイレットペーパーの芯案件について死闘を繰り広げてきた。それを急にやってきた新参者に「きれいにしようよ」とか言われても説得力がない。

例えるなら全然実家に近寄らない親不孝な息子がたまに実家に帰ったと思ったら「この家も汚いよなぁ。お袋もちゃんと掃除したほうがいいよ。」などと言い出したくらいの感じだ。つまり環境に口出しできるのは当事者だけなのだ。10代の意識高い系のボランティア学生がエルサレムの真ん中で「争いはよくないよ!」と叫ぶようなものだ。イタリア人は意見を言う前に当事者としてこのシェアハウスに「参加」する必要があるのだ。

 

っていうか、「トイレはきれいにつかいましょう」(実際には英語で書いてあったがどう書いてあったかは失念した。)ってまさかとは思うけど僕も含まれてないよな?

だって僕はトイレットペーパーの芯に落書きをしただけだし。芯の増殖には加担していない。増やしたのはあいつ(イギリス人)だ。僕ではない。

あるいはイタリア人は「床に散らばったトイレットペーパーの芯」は許せるが、「床に散らばったトイレットペーパーの芯に書かれた無数の般若」は許せなかったのかもしれない。だとしたら僕にも責任があることになる。

でもあれだよー?単純に悪魔とか、鬼とか、死神とか、そういうマイナスイメージじゃなくてあえて般若にしたのはこう、日本の文化を提示しつつ問題解決を計ったわけで、般若っていう選択はかなりインテリジェンスなあれだったと思うよ?だめ?

 

僕の理屈で言えば「トイレットペーパーの芯を捨てないあいつが悪い。僕はそれに素敵な絵を描いてあげただけ」という言い分だったが、般若を用いることで景観を著しく損ねたのであれば僕もまた「トイレはきれいにつかいましょう」と叱られるべき一人なのかもしれない。

 

おしまい

 

 

 

購買欲求はプッシュ通知のように

 

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消えないプッシュ通知

パソコンのプッシュ通知をずっと無視している。

アプリのアップデートがあるから許可をすべしという内容のものだが、これに許可をして色々進めていくと再起動やインストールの堂々巡りに巻き込まれ、「インストールのために再起動してください」「インストールのためにはアプリを終了してください」というやりとりを延々とやるはめになる。それでついには無視しているというわけだ。

また、この例でなくても僕がインターネットと接する上でプッシュ通知は切っても切り離せない。ラインがきたとき。Webページの安全性が疑わしいとき。あるいは何かをダウンロードするとき。毎回プッシュ通知が画面に介入してきて何かメッセージを訴えかけてくる。

 

それで今日もこのメッセージが画面に出たまま作業してるんだけど、ふと「これって購買欲求と同じかもな」と思った。購買欲求はプッシュ通知と似ている。

 

あるとき僕が何かを欲しくなるとする。そうだな、今このパソコンがいつ壊れるかビビりながら使っているから、新しいパソコンが欲しいな。

すると僕の現実世界(モニター)に購買欲求(プッシュ通知)が表示されることになる。それは日常生活のあらゆる場面で自己主張をしてきて、「パソコン買わないの?」と何度も訴えてくる。会社でパソコンを打っているとき。カフェでマックブックを開いている人を見たとき。あるいは全然関係ないことを考えているときに「家から近いアップルストアってどこかな」と考えてしまっている自分がいる。

 

自分がどこで何をしていても購買欲求は様々なメッセージに姿をかえて目の前に姿を表せる。「パソコンを買い換えたらもっと凄いことができるようになるよ」「新しいパソコンは使い心地がいいよ」「そのパソコンは古いから今壊れたらデータが消えてしまうよ」といったメッセージはいずれも僕が自分の購買欲求を満たすために作り上げた自分に都合の良いメッセージ=言い訳に過ぎない。

 

パソコンの場合は高額なのですぐに手が出ずに「買ってしまった!」という自体にはなりにくいが、本やCDといった「地味に値が張るもの」のようなものはついぽんと購入してしまうので注意が必要だ。消費行為に対して危機感を持てなくなると、プッシュ通知を自分で管理できなくなってしまうので画面がプッシュ通知まみれになってしまう。「漫画の新刊がでました」「最近カラオケにいっていません」「新しい靴で自分を素敵にみせましょう」「前から欲しかったDVDが中古で出品されています」

と管理できなくなったプッシュ通知は画面を覆い尽くし、要は購買欲求の管理を怠る人は「あれもほしいこれもほしい」から抜け出せなくなり、現実世界が見えなくなってしまう。そして消費にとらわれて「次に欲しいもののために働く人」と化してしまう。

それはとても怖いことだし、存外簡単になれるので身の回りにも必ずいるんだろうな、と思う。

 

プッシュ通知に対してどんなアクションをとるかというのは当然人次第だけれど、せめてプッシュ通知がきて電気信号的に「はい」ボタンを押してしまうのではなく、それがなんのために必要なのか、それを押す必要が本当にあるのかどうかについて冷静に吟味する必要があるのだろうな、と思った。

 

 

おしまい

 

 

 

エナージェルフィログラフィに興味津々

 

www.pentel.co.jp

 

昨日友人メテオから連絡があって「今ぺんてるのエナージェルフィログラフィを狙っている」という狩人のような報告を受けた。

 

調べてみたらゲルインクのボールペンらしい。

繰り出し式。あ、繰り出し式っていうのは本体をひねって芯が出るタイプのペンのことね。これの最大の利点はポケットの中で勝手にノックされてポケットの中が大惨事にならないってことと、本体がコンパクトになるってことかな。

 

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さすがというか素晴らしい着眼点ですね...。確かにこれはいいボールペンの予感しかしない。なんか、中の芯をジェットストリームに取り替えられるとメテオは興奮してたけどぺんてる可哀想(笑)でも確かにジェットストリームに変えられるなら青の0.7とかしたら書きやすいだろうなぁと思いつつ。

 

ボディーがマットなのがいいよね。

ターコイズブルーとダークブルーの色が目をひいて「これ欲しい!」とつい思うけれど、何度も見ていると白がすごい存在感を放っていることに気づく。

 

 

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うおお...いいな...大人っぽい。

メテオはこれにするーって言ってたけど僕もこれがいいな。勉強が捗りそう。というか、勉強している自分が好きになれそうな。ひとつの文房具に対して「これいいな!」と執着したのはすごく久しぶりのことのような気がする。

 

また買ったらご報告しますがボールペンって細長い物体だからレビュー難しいのよねぇ。文章で補うとするか。

 

 

おしまいー

なぜ自己紹介で「好きなものはカレーです」がまかり通るのか

 

 

今自分が好きなもの。って誰だってあると思うんだけど、それって「昔からずっと好きなもの」と「最近好きになったもの」があると思うんだ。

「昔からずっと好きなもの」っていうのは要するにこだわりで、こだわりって要するに執着と言える。一方で「最近好きになったもの」はこだわりでも執着でもなくて、たまたま今現在興味が湧いているもの程度の意味合いだろうから流行と言えるかもしれない。

 

「昔からずっと好きなもの」=執着

「最近好きになったもの」=流行

 

あくまで個人的な感想だけど、前者は自分と深く関わりのあるものだろうから大切にする必要があるけれど、後者は単なる流行、トレンドなのであまり深追いせずに「ああ自分は今こういうことに興味があるんだな」程度に留めておいたほうがいいと思う。具体的に言えば昔から大好きなBUMP OF CHICKENのライブに行くか迷っているのであれば行くべきだけど、今G-SHOCKの時計がやけに欲しいのであれば我慢すべきだ。

 

 

執着しているものは過去からずっと執着していたという歴史があるので連続的といえるけれど、一方で最近好きになったものは現在単発的偶発的に興味を持ったものなので分断的と言えるかもしれない。

 

「昔からずっと好きなもの」=執着=連続的=愛?

「最近好きになったもの」=流行=分断的=恋?

 

 

愛だの恋だのは半分冗談だけど、例えばすごい執着していた恋人と別れた時に「胸に穴が空いたような喪失感」を味わったり「半身をもがれたような痛み」を感じるのは、それが自分の一部になっていたからではないか。

執着しているかどうか(愛しているかどうか)は自分の一部になっているかで測ることができるのかもしれない。

 

 

僕は金木犀としろくまとスヌーピーを愛している。僕は6年間同じ金木犀の香水を使い続け、上野動物公園のしろくまを2時間眺め続けて他は何も見ずに帰り、スヌーピーの誕生日にシアトルに行ってあらゆるスヌーピーグッズを爆買いする。

こういった執着はもはや自分とは切っては切り離せない関係性に組み込まれているので、完全に客観視して語ることができない。

 

 

よく自己紹介で「好きな食べ物はカレーです」なんて言ったりするけど、好きなものがカレーって厳密には自己紹介とは言えないじゃないですか。

自己の紹介なわけだから、自分という個そのものに関する情報を供述すべきであって、その個の興味の対象は自己紹介には含まれないという考え方はありうる。カレーが好きだなんて言う暇があったら身長体重、国籍、使用言語、BMIを語れよ、という考え方だ。ところが実際には自己紹介では「好きな食べ物はカレーです」が許される。

むしろお前のBMIなんてどうでもいいから好きなもの教えろよという空気すらある。

 

だから個人の執着っていうのは個人のアイデンティティーに深く根付いているので自分とはどんな人間なのかについて考えるときに執着の対象について考えるのは有効だということを言いたかった。

 

おしまい。

僕の勉強

 

勉強を始めるときは自分に用意されている時間がどのくらいあるのかを計算する。

1時間に満たない場合は本を読むことにする。それ以上ある場合は事前に計画を立てる。

 

今日は20時にカフェに着いて、閉店の23時まで勉強ができる。

つまり3時間を勉強に当てることができる。

 

その場合僕はこれを1時間のブロック×3にわける。

今日は英語を集中的にやりたかったので

1時間目 英語

2時間目 国語

3時間目 英語

という時間割をつくった。

 

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次に1時間のブロックを55分と5分にわける。

この5分は休憩なので、なるべく頭を使わないことをする。

スマホをいじったり目を閉じて音楽に集中したりする。

(勉強中は他のお客さんの会話も含めて日本語も英語も聞きたくないので

ジャズとかクラシックを聴くようにしている。)

 

英語はとにかく破壊的に出来ないので今は必死に英単語をやっている。

しかも英単語ターゲット。犬の表紙のやつ。これが高校の時ずっとかじりついていていて結局出来た気がしないので、まずこれを完璧にしてやろうと思った。

なんか、とにかく完璧に覚えた英単語帳が1冊あるってなんか心強いじゃないですか。

 

英語はひたすら例文をぶつぶつ言いながら書き写している。

だいたい英語の学習なんて他にやり方思いつかない。色々勉強に関する本は出ているけれど、結局はこつこつ勉強するしかないし、ねちっこく反復してやるしかない。ほんとはみんな気づいている当たり前のことだ。

 

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1時間英語をやったら必ず違うことをして休むようにしている。それ以上続けると集中力が切れているのに「手作業だけ」やっていることになり、全然頭は働いていないのにあたかも「英語を書き写す」アルバイトをしている状態に陥る。特に暗記学習は主体的でなければ意味をなさないと考える。

 

 

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さて、国語って要は読書で、今は哲学の本を読んでるんだけど。

「ゲンロン0 観光客の哲学」を読んでいる。

 

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

 

最初は劇場型空間都市に通じる学習が得られるかなと思って買ったんだけど、どちらかというとナショナリズムとグローバリズムの対比とか、経済と政治の対比みたいな部分が大きくて、まあそれはそれで面白いので読んでるけどいかんせん難しいので集中してしっかり読まないと進まないし眠くなる。あとはこの本の関連で購入した「人間の条件」もアマゾンから届いたらアホみたいに分厚くてびびったけど、内容にはかなり期待しているのでゲンロン0を終えたら読みたい。

 

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

そう、早く今の本を読み切らないと次の本を読めないって永遠の悩みですよね。

哲学の本ばかり読んでると人間として冷たくなりそう(偏見)なので小説も読みたい。今読みたいのは村上春樹の、あの、なんだっけ。不死鳥の騎士団みたいな本。

 

 

おしまい

 

 

 

 

 

シェアハウスでトイレットペーパーの芯を捨てないアイツらへの復讐

 

掃除したら負け

 

前にも書いたけどシェアハウスに住んでいる。

オーナーが一軒家を改造して4人住めるようにしたような木造住宅で

床が傾き、天井からはねずみが出る。

 

4人住んでいるが日本人は僕しかいない。

イギリス人・イタリア人・韓国人・日本人の僕。

非常に国際色の強いシェアハウスなのだ。

 

こう言うと大抵の人が想像するのは皆で食卓を囲んで

英語でわいわいやってる絵だ。

 

「オマタセー!マルゲリータ焼けたわよ!絶品よ!」

「ワーオ最高!キムチ乗せて良いか?」

「HAHAHA.いいわけないだろ?なんでもキムチ乗せるなよ」

「お前こそピザにサンドイッチ乗せるなよ?」

「おいおい喧嘩するなよ〜」

「(一同笑う)」

 

みたいな。期待してたけど全然なかったよね。

住人が全員シャイなので全然部屋から出てこない。

顔を合わせようとしない。会話が発生しない。

 

そして誰も掃除しない。

洗面所、風呂場、トイレ、台所....たまに清掃の方が最低限やってくれるので最悪の事態は回避できているけどとにかく公共の場の使い方がひどい。酷いとか批評してるけど「こいつらが掃除しないのにおれが掃除したら負けじゃん」とか意地はってる僕も大概なんですけどね。

 

 

トイレットペーパーの芯

あるときトイレの床にトイレットペーパーの芯が落ちていた。紙を使い切って新しいのをセットして、古いやつを捨て忘れたんだろうな、と思って僕が捨てた。

そしたら1週間くらいしたらまたトイレットペーパーの芯が落ちてた。はあ?なんで捨てないの?2回目はないぞ自分で捨てろよ、と僕は内心イギリス人・イタリア人・韓国人のうちの誰かに毒づき、トイレを出た。

 

そしてゴールデン・ウィークは実家に帰り、

僕は1週間ぶりくらいにシェアハウスに帰ってきた。

 

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なんでだよ!

 

なんで片付けない!

トイレの床に散らかるトイレットペーパーの芯。これ3個目4個目を放置するときどういう気持ちで放置してるわけ?あるいは本当に何も考えてないとか?

これシェアハウスの公共のトイレだぜ?みんなが使うんだぜ?

 

さすがに頭にきたぜ。

かといって犯人がわからない。一人一人問いただすのも面倒だし。

(そもそも英語ができない)くっそー。

 

 

 

 

 

僕の復讐

 

そこで僕は画期的な復讐を思いついた。

その夜。

 

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全部に般若を書いたよね。

しかもわざわざ揃えて。

 

これ1個目書くときはかなり考えながら丁寧に書いたんだけど3個目4個目からは手慣れてきて半ばコケシ職人のような手際と表情で次々に般若を仕上げていった。

これ便器に座ったときにトイレットペーパーの芯が全員こっち見てるの圧巻ですよ。

僕はすごく満足してトイレを後にした。

 

 

 

 

そしたら翌日に全部なくなってたの(笑)

やればできるじゃん!

 

まあ普通に嫌だよね。突然あんなの出現したら。出るものも出ないというか。

般若書いた時点で僕の悪戯だとは気付いてると思うけど。ちなみに今はトイレにサインペンを常備してるよ。

また放置したら書くからなっていう抑止力になるからね。

 

 

おしまい

どのくらい前までの発言なら責任を持てますか?

連続する主体

 

さきほど読者の方が「今遡ってアンディさんのブログを読んでいます!今2016年1月まできました!」というので、びっくりして「読むのはちっとも構わないが、そのくらい古い記事だと僕はもう責任を持てない。」と返した。そして自分で言っておきながら「おや」と思った。

どうして僕は自分で書いた文章なのに責任が持てないんだろう?

 

 

いつから責任を持てなくなるのか

 

例えば、

「昨日やるって言ったのにやってないじゃないか!」と憤る上司に

「いや、昨日は昨日の自分なんで...今日の自分に言われましても」と返したら、きっと頭がおかしいか馬鹿にされていると思われるに違いない。

 

しかし一方で、

「3年前は紅茶に砂糖入れてたじゃないか!」と言われたら

「それは3年前の自分だからね。今は違うんだよ。」と返すことができる。

 

こう返しても僕は正常だし、相手もごく普通の返事として受け取るだろう。

これは要するに、昨日の自分は今日の自分と続いているが、3年前の自分は今日の自分とは続いていないということなのではないか。という問題提起に繋がる。

 

最近の自分は連続しているが、

過去の自分は独立している。

 

という言い方もできるかもしれない。

つまり、ある程度古い自分は「他者」として考えることが出来るかもしれない。ではどこからが自己で、どこからが他者なのか。

 

6年経ったら他人説

一般人なので学術的なことは全く言えないんだけど、スタバで寛いでいるいち凡人の妄想として挙げさせてもらうのであれば、6年たったら他人だろうな。と思う。根拠は細胞の新陳代謝だ。人体は37兆以上の細胞で出来ているが(うち2/3は赤血球だそうだ)、それらは6年くらいあれば完全に入れ替わってしまうらしい。細胞が入れ替わるんだから人間としても更新されるはずだ。だから6年たったら、他人。という考え方。

 

でもだめだなー。この論理だと基本的に人は6年以内の言動に責任を取らなくちゃいけなくなる。でも実際には6年前は昔すぎる。5年前に何に憧れて、何に夢中で、何に腹を立てていたかなんて思い出せない。時間は流れていくし人は忘れるのでそれでいいんだけど、僕みたいにブログを続けているとそうはいかない。冒頭の読者みたいな方が遡って「アンディは2015年12月11日にこう言ってたのにおかしいじゃないか!」とか言われたらやっぱり困る。つまり現に僕は2年前の自分にすら責任を持てないのだ。

 

そういうわけで別の論理を持ち出すことにした。

 

4ヶ月経ったら他人説

4ヶ月経ったら他人です。ひゅう。これは結構良い線いってるんじゃないか?根拠は心臓だ。心臓の細胞は4ヶ月で作り変わる。心を入れ替える、とか言うだろ。(こういうユーモラスな言い回しは伊坂幸太郎作品によく出てくる)

「お前2ヶ月前は節約するって言ってたじゃないか!」と言われたら「そうなんだよねえ」と自分ごととして責任を取ろうとするけれど、「お前半年前は筋トレするって言ってたじゃないか!」と言われたら「いやそりゃまあその時は言いましたけどね。」とあたかも他人事のように処理できるかもしれない。責任をとらずに済むかもしれない。

 

2週間経ったら他人説

あるいは2週間経ったら他人かもしれない。根拠は水だ。人体の70%は水でできている。つまり体重50kgの人がいたら35kgは水にすぎない。だから日頃とっている水は人の健康に重大な影響を及ぼす。体内の水が代謝されて入れ替わるサイクルは2週間ほどだ。だから2週間経ったら他人、というのはどうだろう。

 

10年経ったら他人説

これは僕はあんまり好きじゃないけどね。法律で自己と他人を考えるのであれば時効という側面から考えるのも面白いかもしれない。例えば借金が時効10年で消滅したとして、それは支払いの責任から解放されたことを意味する。つまり、「支払いを負っている自分」が他人になったと言えるのではないか?

 

 

結論

結論っていうか、仮結論だな。4ヶ月くらいが妥当だと思うのでそう考えることに決めました。だから当ブログに関しましても、4ヶ月いないの記事であれば責任を持つが、それ以上古いものに関してはあんまり責任を持てませんという(笑)

 

 

おしまいー