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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

初めてのDMM英会話(前編)

DMM英会話を体験

 

 

初めてDMM英会話を利用した。

初回2回は誰でも無料ですぐに受けられるというので「タダなら損はあるまい」と利用することにした。DMM英会話はDMMアカウント(無料登録)とskypeアプリがあれば誰でもすぐに利用できるのでとても敷居が低い。

 

会員登録は前に「艦これ」をやっていたので(他にもお世話になってるコンテンツはあるけど伏せて置く)アカウントは元々持っていた。skypeアプリは元々ケータイに入っている。となるともうあとは予約を入れるだけなんだよね。

 

これがなかなか踏み切れない。だって予約を入れたら本当に話さなくちゃいけなくなるから。一人で英単語を黙々と覚えたり、洋画をみてリスニングの練習をしている限りは僕はあたふたする必要がないし、傷つくこともない。でも本当に会話するとなれば大変だ。実践なのだ。「これは訓練ではない。繰り返すこれは訓練ではない。」という感じだ。それでとにかく実践が怖いやら何やらでありとあらゆる言い訳をして1週間くらいが過ぎた。それで今日、いい加減やるかと思って予約ボタンを押した。22時の授業を予約した。

 

優しいシステム

 

講師は自分で選ぶことができる。

出勤している講師の写真が並んでいて、そこから選ぶ。

講師はそれぞれ顔写真の横に国籍が出ていて、さらに詳細をクリックすると出身校や趣味などが出てきて安心して講師を選ぶことができる。それぞれの講師は5つ星でランクがつけられていて、アマゾンみたいにレビューが出ていたりする。すごい時代になったものだ。

 

フィリピン女性の星5の人を選択した。

やっぱなんか女性のほうが優しくしてくれそうだし..。男を選択して講師が「クソ..男かよ..」みたいなリアクションとったら怖いですし....。あとはイギリス人の先生とかもいたんだけどやっぱりフィリピン人って英語がすごく聞き取りやすいというイメージがあるので。それからこれは半ばたまたまだけど僕と同い年だったので話しやすいかな、と淡い期待を抱いたのだ。

 

エイヤ!と予約をいれる。19時くらいに22時からのレッスンを予約した。

このくらいの時間の余裕をとれば星5の先生でも簡単につかまるのかもしれない。

 

そして近く22時....。

 

 

 

どうなる、俺!!

 

 

つづく

「高齢者がいらっしゃるので席を譲って戴けませんか?」だなんて言うべきじゃないんだ。それは結果的には偽善で、傲慢な発言だったんだ。

今週のお題「ゴールデンウィーク2017」

 

エリックカール展に行ってきました!が、

本日の本題はそれではなく。

 

 

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座る女性、立つ老人

展示からの帰りはバスを利用した。GW中のバスですからね。

けっこう混んでるわけですよ。運転手さんも「奥に詰めてください」というアナウンスを何度もして、僕と連れも何とか優先席前の吊り革を確保してバスに揺られていた。

 

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そうこうしているうちにバスが○○病院前に停車。ただでさえ混んでるのにまだ乗るのかよ~とげんなりしながら何とか新しい乗客のスペースをつくる。

そしたら、高齢者の夫婦が乗ってきたではないか。見る限り80歳とか90歳くらい?

杖とかはついてないけど足元はおぼつかない。僕と並んで優先席の吊り革につかまる。優先席を譲ってもらいたがっているようにも見える。(あるいは全くそんなつもりはなかったのかもしれないが。)

 

そんな状態を優先席の女性は知る由もない。

このバスは優先席が進行方向を向いているため、一度座席に座ってしまうと真横を向かない限り高齢者が視界に入らないのだ。

女性は30歳くらいの見た目で、かばんにエリックカールのキーホルダーをつけていた。展示の帰りなのかもしれない。ちょっとうとうとしたり、考え事をしたり、暇そうにしていた。

 

高齢者に席を譲ってあげればいいのにー。

と僕は少しムッとして思った。バスが交差点に差し掛かって大きく左折する。吊り革にしがみつく高齢者が少しよろける。僕は耐えかねて連れに「あの人、席譲ってあげればいいのにね。」と言ってみた。「ほんとだよね。」という返事を期待していたのだが、実際に返ってきたのは「でも妊婦かもしれない。」という言葉だった。

 

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でも妊婦かもしれない

正論だった。冷や水を浴びせられたような気分になった。

妊婦かもしれない。

足に障害を持っているのかもしれない。

バランス障害を持っているのかもしれないー。

 

障害のほとんどは目で見ることができない。

高齢者であったり松葉杖をついていれば誰でもわかりやすい。「あの人は障害者だから」と譲ることができる。しかし、目に見えないが社会の助けが必要な人・優先席で席を譲られるべき人だって大勢いるはずだ。目の前の女性は、健常者か障害者か、それは誰にもわからない。そしてそれを確かめる権利は僕にはないのだった。

いつの間にか僕は、赤の他人である高齢者と赤の他人である女性の間に入って、勝手に裁判官の真似事をしていたのである。「健常者ですか?障害者ですか?健常者なら立ちなさい!」なんて言うわけがないが、ただ僕はそれに限りなく近い意識でバスに乗っていたことになる。そのことが恥かしかった。

 

handicap.somalisoa.com

 

 

 

 

高齢者を特別視するのはおかしい?

僕は高齢者を見かけて「ほら誰か席譲らなきゃ!」とバスを見渡したわけだが、こういう僕の価値観もあるいは偏っているのではないだろうか。その高齢者は本当に席を譲ってほしいのだろうか?それもわからずに勝手に正義の側に立って善人でいようとしている僕はひょっとしたら間違ってるのではないか?これは傲慢なのだろうか?

 

高齢者にしても確かに病院から乗ってきたものの、本当に立つことが出来ないのであれば車椅子に乗っているだろうし、現に今杖もつかずに吊り革につかまっているのである。彼らはすごく健康で、ひょっとしたら昨日は登山でもしていたのかもしれない。第三者の僕が入って「ほら僕がこの女性をどかしてあなたの席を用意しましたよ!席をどうぞ!」と微笑みかけることで気分を害したり、気を遣うことだってあり得る。これは善意の押し売りになる。

 

電車で席を奪い取ろうとする老人に対し、若者が放った言葉が突き刺さる! | Buzzmedia(バズメディア)

 

上記のケースでは、登山帰りの高齢者が電車に乗ってきて、席を譲らない若者に嫌味を言った時に若者がブチ切れたーというものだったが、若者のセリフにはハッとさせられた。

 

「あんたたちさぁ、山は歩ける

 のに電車では立てないの?

 それっておかしくない?

 遊んできたんだろ?
 
 こっちはこれから仕事に行く

 ところなんだよ。

 だいたいさぁ、俺みたいな

 ヤツが土曜日も働いて

 あんたたちの年金を作って

 やってるんだって分かってる?

 俺があんたみたいなジジイに

 なったら年金なんてもらえなくて、

 優雅に山登りなんてやって

 いられないんだよ。

 とにかく座りたかったら

 シルバーシートに行けよ」

 

確かにその通りで、痛快ですらある。

もちろん僕のケースだと高齢者は病院帰りなので状況は異なるけれど。

 

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まとめ

結局僕は何もしないまま立ち続けた。高齢者は途中で降りて行ったし、優先席の女性もどこかで降りて行ったと思う。ただもはやこの際、あの女性が妊婦だったか、障害者だったかというのは問題ではないのだ。問題は僕の意識と今後のふるまいである。

 

今回の「優先席の女性、その前に立つ高齢者、それらを裁く僕」において、

僕には2つの反省があった。

 

①優先席に座る女性を健常者だと決めつけた

これは我ながら罪深いと思った。別に今回は何も起こらなかったので誰に責められるわけでもないけれど、僕は勝手に自分自身を罵った。一見健常者に見える人がいたとして、どうしてその人が健常者だと断定できるだろう?

例えば今回僕が「あなたは健常者なんだから席を譲ったらどうです?」といったニュアンスのことをソフトに言ったとしよう。それでもし女性がバランス障害だった場合彼女は非常に気分の悪い二択を迫られることになる。席を譲る場合、自分に障害があるということを告げずに何とか体を起こして席をたち、高齢者に席を譲るだろう。そして苦労しながら何とか吊り革につかまり、目的地に早く着くことを祈るだろう。席を譲らない場合、彼女は自分が見た目ではわからないが障害者で、席を譲るのが困難であることを僕に釈明するだろう。さらに高齢者に謝罪するかもしれないし、証拠として障害者手帳を取り出すかもしれない。いずれにせよ僕の"クソ勘違い正義感"によって彼女が嫌な気持ちになることは間違いない。

僕の無知さは、そういう危険性をはらんでいる。無知な正義って怖いよね。

 

②第三者でありながら人を裁こうとした

席を譲るか、譲らないかというのはあくまで高齢者と女性との間の問題であって、第三社の僕は彼らとは何の関係もない。にも関わらず僕は彼らのことを知りもしないで、ただぱっと見た印象で片方が高齢者、片方が健康で若い女性に見えたから一方的に「あなたは彼に席を譲るべきだ」という意見を持ったのである。

正義の側に立っていれば安心だ。周りを見渡してイメージ的に間違っている人を指さして裁いていれば「良い人」でいられる。知らず知らずのうちに僕がそういう立場の人間になっているのがショックだった。

「ほら誰か席譲らなきゃ!」という意識というか個人的な規範が既に傲慢だったのかもしれない。

 

これが僕が席に座っていれば話はまた変わってくる。その場合僕は当事者だからだ。まだ全然動きようがある。ところが今回僕は第三者でありながら、高齢者と優先席の関係性に勝手な正義を持ち込んで干渉しようとしたので、それが個人的に反省だな、と思った次第だ。次からは気を付けようと思う。

気づかないうちに自分が正義の側に立って人を裁かないように。

傲慢さを持たないように注意深く生きたいと思ったのであった。

 

 

 

 

 

 

ericcarle2017-18.com

 

エリックカール展は最高だった。

おしまい

 

日本人・ドイツ人の会話の違い (コンテクスト摩擦の解釈)

 

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ドイツ人と日本人の話が噛み合ってない場面に遭遇した

もう、傍から見たら言い争っているように見える...。

 

「言いましたよね」「言われてません」

「説明しましたよ」「これじゃわからない」

というような押し問答を延々と続けている。

 

これはもうどっちが悪いとかじゃなくて

「もっとちゃんとお互いに話し合えばいいのになー」と

勝手に思ったりするんだけど、

今回は

どうしてこういうことが起きているのかについて考察してみた。*

僕はGW休暇を河口湖で過ごしていた時にふと思いついた。

「これはコンテクスト摩擦だ」と。

 

 

 

コンテクストとは

コンテクストという言葉がある。

哲学とか文学でよく出てくる言葉なんだけど

 

 

コンテクスト(英: Context)あるいはコンテキストとは、文脈や背景となる分野によってさまざまな用例がある言葉であるが、一般的に文脈(ぶんみゃく)と訳されることが多い。 文脈により「脈絡」、「状況」、「前後関係」、「背景」などとも訳される 

 

コンテクスト - Wikipedia

 

脈絡(context)という訳し方が個人的にはしっくりくるかな。

このコンテクストが強いか・弱いかというのがある程度自分の民族性によって影響を受ける...平たく言えばお国柄のせい

というのが今回の焦点だよ。

ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化という言い方で説明してみますね。

さて、会話において話し手と聞き手がいたときに

 

ハイコンテクスト文化では聞き手に責任がある

 

ローコンテクスト文化では話し手に責任がある

 

という違いがある。ここが重要。

 

 

つまりハイコンテクスト文化においては聞き手に責任があるため、話す側はある程度「適当に」話すことが許されている。「このくらい言わなくてもわかるでしょ?」みたいな。だから話も抽象的ではっきりと物事を言わない。「空気を読む」とか「物事を察する」というのも聞き手の責任だね。きわめて日本的なんですよ。

 

日本はまさにハイコンテクスト文化といえる。島国だから民族も少ないし、生活習慣や文化が似通っているので一から説明しなくても分かり合えるという意識がある。

 

一方ローコンテクスト文化においては話し手に責任がある。その場合一見「当たり前」「言わなくてもわかる」ことでもきちんと説明する必要があるし、話し方が極めて論理的(日本人はこういう話し方をされるとムッとする人が多いみたい。)だ。間違ってることはとことん間違ってると主張するし、議論が好きだ。

 

ドイツはまさにローコンテクスト文化で、様々な民族が出入りして文化的背景がそれぞればらばらなのでちゃんと話し合って「私はこう思う」というのをロジカルに説明し続ける必要があるわけだ。

 

 

わかりやすいリストがあったので引用します。

 

ハイコンテクスト文化
聞き手の能力を期待するあまり下記のような傾向があります。

  • 直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
  • 曖昧な表現を好む
  • 多く話さない
  • 論理的飛躍が許される
  • 質疑応答の直接性を重要視しない

ローコンテクスト文化
話し手の責任が重いため下記のような傾向があります。

  • 直接的で解りやすい表現を好む
  • 言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
  • 単純でシンプルな理論を好む
  • 明示的な表現を好む
  • 寡黙であることを評価しない
  • 論理的飛躍を好まない
  • 質疑応答では直接的に答える

ハイコンテクストとローコンテクストの違い

 

 

 

以上を踏まえると冒頭の日本人とドイツ人の会話の噛み合わなさの原因が浮き彫りになってくる。

 

 

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http://press.share-wis.com/high-context-and-low-context

 

日本とドイツはコンテクスト的に両極に位置している。

これがコンテクスト摩擦。(僕が今考えた言葉なのでむやみに使わないように)

 

 

結論

 

日本人とドイツ人の会話が噛み合っていなかったのは文化的な違い(ハイコンテクストとローコンテクスト)から生じた言語的な摩擦である。

 

という結論を出してみました。

ぜんぜん違ったらどうしよう(笑)

 

じゃあどうすればいいの、という解決法の話なんだけど、こればかりは歩み寄ってくださいとしか言いようがない...ただ、日本人はずっと鎖国をしていて、あるいはそうでなくても島国なので「外国人」が珍しく、ハイコンテクスト文化が根強い。

「京都ではお茶漬けを出されたら"そろそろ帰ってください"という意味だ」なんて究極のハイコンテクストだ。お茶漬けの話は極端だとしても結構現代日本人もハイコンテクスト文化に甘えて寄りかかっている部分が大きいので、歩み寄るにせよやはりこれからの国際社会においては日本人がグローバルなローコンテクスト文化を学んで理解していく必要があるのではないか。というのが現段階の僕なりの結論です。

 

 

おわりに

相手は自分とは違う人間なので、相手がどんな気持ちなのかどんなことを考えて言葉を話しているのかを考えて想像してみるというのは全国共通の大前提です。(誰しも疎かにしがちで出来ないんだけどね)そうなんだけど、こういった文化的背景・今回でいうコンテクストの概念を知っていれば多国間の会話でも相手を理解する手助けになるのではないかと考える!

 

 

コンテクストの問題は以前執筆した記事の「言語が言語になる前のリキッドな状態」の部分につながるところがあるので今度そのあたりも考えてみたいなあ。

 

andy0330.hatenablog.com

 

 

おしまい

 

 

 

 

手段として親に相談してみる理由

 

将来こうしたい、この先こうしたいと考えている。

みたいな自分の人生における大きな舵取りを決めたとき

(あるいは悩んでいる時)僕は親に相談することにしている。

 

という言い方をするとどうしても「許可を取る」ようなニュアンスに捉えられがちなんだけど決してそういう意味ではなく、「物事の決めた方」の手段のひとつとして親に相談するのは有用だという話をしたい。(一応常識として親には相談すべきだ、みたいな文脈もあるだろうがここではそういう話はしない。)

 

 

親は自分の分身である。

 

というのはちょっと滑稽な表現で、遺伝子のコピーという背景がある以上実際には「自分は親の分身である。」という文脈が本来正しい。ただ今回は主体が自分なので便意的にこういう書き方をしてみた。

僕という人間はパパ半分ママ半分から出来ているので、僕という人格は父親的な要素と母親的な要素によってベースが出来ている。そこから外的要因や環境による影響などがカオスに影響を及ぼして現在の自分の人格が出来上がるわけだけど、

 

親に相談する。

という文章を先程の「親は自分の分身である」を代入すると「自分の分身に相談する」という言葉が出来上がる。親に相談するというのはある意味自分の分身に相談するということなのかもしれない。

と最近思うようになった。

 

なぜ分身に相談する必要があるのかという疑問がわくかもしれない。分身に相談したいなら勝手に自問自答して悩めばいいじゃないかと。

 

 

しかし、何かしらの相談事を持っている人というのは行き詰まっていたり思い込みや刷り込みによって身動きが出来なくなっている場合が多い。

その場合必要になるのは自分以外の誰かであり、しかし自分のことはよく知っており、さらに自分に似ていて、人生経験の豊富なひとに聞くのが一番だ。

 

その対象としてベストなのが親なんじゃないかというのが僕の意見だ。

 

親は自分より何十年も歳をとって経験を積んだ分身なのである。

相手にどんなことを言われても、それが自分と半分は同じ遺伝子で出来ている人生の先輩からの言葉であることに変わりはない。

そういうわけで僕は親に相談することを重要視している。それは決断を親に委ねるということでは全くなく、むしろ何か突き抜けたことをやるためには親(自分の分身)を納得させるような材料を用意して見せることが大切だ。

 

親を説得できるかどうかというのは僕にとって相談内容が正しかったかどうかの大きな判断材料になっている。

 

 

おしまい

 

 

 

メタお母さん

メタお母さん

 

メタっていうのは簡単に言うと「俯瞰する」ってことなのかな?サッカーの試合をプレーヤーとしてではなく観客から見下ろす感じ。これがメタ。

 

メタお母さん問題っていう言葉をさっき作ったんだけど、要するに人は自分のお母さんを厳密に一人の人間(仮に花子とする)として認識することは出来るのかという問題だ。

正確にはあれか、お母さんメタか。

 

誰しも子供の頃は親って全知全能の神みたいな存在で、なんでも知ってるし、どんなことからも自分を守ってくれると思っている。

ところがある段階で「親も一人の人間なんだな」と思うようになるよね。(この段階を踏まないと人はマザコン化したり逆に親を拒絶するようになる)

 

これが親の神格化からの脱却と呼びたいんだけど、それでもなお人は親を特別視するし一人の人間として認識するのは非常に困難だと思っている。

 

そう考えると『崖の上のポニョ』に出てくるお母さんってメタお母さんだよな。主人公の男の子から名前呼び捨てされてるし。この場合はそうすけがメタなのか。メタそうすけか。なんかメタルスライムみたいだなメタそうすけって。

 

 

うーん(笑)我に返ると何言ってるんだおれ‥‥

疲れてるのかもしれないので寝ることにします。

 

読んでくれてありがとう。

おしまい

「地毛証明書」はまだしも、幼児期の写真を要求とか行き過ぎてて怖い

 

エスカレートする染髪取り締まり、そして地毛証明書

 

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こんな記事を見つけたよ!

 

www.asahi.com

 

そういえば私立の中高に通っていた妹の学校でも地毛証明書の制度はあった。

染髪は不良のやることだから摘発しなければならず、ただそれを摘発するのに「元々茶髪」とか「元々天然パーマ」みたいな人が紛らわしいからきちんと「地毛証明書」に親の印鑑と、あとは幼児の写真を合わせて提出してください。ということなのだろう。

妹の友人もさんざん生活指導の先生に呼び止められて、そのたびに事情を説明して、親に連絡取ってもらったりして、あとはそのことでクラスメイトにからかわれたりして、本当に馬鹿げたシステムだと勝手に憤っている。

 

 

優生思想

 

何というか、うまく言えないけどこれって「差別」だよな。

差別というか...これだと地毛が茶色の子が生きにくいよなぁ。だって「髪の毛が茶髪であるということ」=不良で不適切な行為って言ってるようなものだから肩身が狭い思いをするだろうと思う。

 

「地毛証明書」っていうのがまた胸クソ悪くなる代物で、

1994年のルワンダ大虐殺における出身部族身分証明書だとか、ホロコースト時代のユダヤ人の就労証明書みたいなものを連想させる。今回の場合は特定の容姿が正しくてそうでない容姿は不適切で劣っているという考え方を誘発しかねない。もちろん学ランをきちんと着こなしたり、スカートを短くしすぎないことは時には重要かもしれないが、その「身だしなみ」を、出自や民族性の問題が必ず絡むような容姿に適用する浅はかさみたいなのが我慢ならないんですよ。そのうちアフリカ人のクオーターの子とかが「お前日焼けサロン行ってるだろ、ちょっとこっちこい」と生活指導の先生に呼び止められるような日がくるだろう。あーあー実にバカみたいな話だな。

 

 

 

 

あるいは

「地毛証明書」問題は優生思想から引き起こされる

差別意識の始まりになるかもしれない。

 

優生学という概念は、1883年にイギリス人のゴルトンという人物が提唱しました。ゴルトンは、優生学を「人種の正得的(=先天的)質の改良」を目指す学問と定義しました。ゴルトンは様々な家系のデータを集め、良い形質を持つ人間にはどのような特徴があるのか調べました。優生学は、統計学の手法を用いて良い遺伝的資質を探し出す「科学」として提唱されたのです。

ゴルトンは『種の起源』で有名なダーウィンのいとこです。『種の起源』には、「自然選択」という概念があります。「動物の世界では、環境からの圧力によって、優れた遺伝的特徴を持つものが自然と生き延びていく」という概念です。この概念は、優生学と切っても切れない関係にあります。

優生学者の多くは、「福祉の発達によって、自然選択により淘汰されるはずの弱者が生き延びてしまうこと」に危機感を覚えていました。弱者が増えると、人間の正得的質は悪くなりますし、福祉コストも増していくからです。この現象のことを「逆淘汰現象」といいます。

優生思想とは?出生前診断の問題やナチスの歴史を踏まえて説明します - 消えゆく僕らの音楽雑記

 たぶん次の標的は地毛証明書をちゃんと提出した子

 

茶髪・金髪etcの生徒を取り締まることは「茶髪・金髪は悪い」というメッセージを学生全員に発信している。その意識が元々生まれつき茶髪だったり金髪だったりする子に向けられたらどんなことになるだろう。

 

クラスメイトの一人が「おまえ、染めてんじゃねえの?」と一言言った瞬間から、その子のクラスでの立場は一転しないだろうか。僕はそのあたりを非常に危惧している。

 

 

髪の毛で勉強するんでもあるまいし、そんな取るに足らないことにかまけてないで仕事してほしい。というのが僕の本音だけど、都立の学校だと周りの評判だったり学校のブランドの問題もあるし、金髪の不良がいて周りがイメージダウンしたら周りも迷惑するだろうからそうもいかないんだろうけどさ。

 

とはいえ黒髪も悪くないと最後に言っておく

 

染髪も染髪で大したことじゃないんだけどね。

大学時代に教習所に行ってたんだけどどいつもこいつも茶髪と金髪で、黒髪の僕が一番目立ってたよ。金髪なんか反社会的な目立つ為の行為なはずなのに、むしろ地毛でいる僕のほうが反社会的に見えてきちゃったりして居心地悪かったよ(笑)

 

 

おしまい

 

 

 

我々は誰しも常に「私」を演じている(劇場空間型都市の解釈)

 

 

「人は誰しも猫を被っている」

という話をなるべく穏便にしたいのだけれど、この言い方だとどうしても角が立つというか、心象を悪くされるのもアレなので「私になる」という表現を使ってみようと思う。

 

 

外に出る時。

別に、コンビニに行くでも渋谷に行くでも良いんだけど、当然服を着ると思う。

服を着て外に出る。ここまではOK?

服はその人の個性が染みついている。派手な色使いの服を着れば人の関心を惹くことが出来るし、爽やかな色の服を着ている人は自分をそういう風に見て欲しいのかもしれない。「いや、おれは服に個性なんて染みついてない、無頓着だから何も考えずに適当な服を着てるから」という人でさえ、その服を着ることで「無頓着」という印象を周囲に与えているという点においてはやはり服に個性が染みついている。

 

それと同じだ。

えーっと何が同じかと言うと、「私になる」というのが、意味的に同じってこと。

職場での私(明るくて冗談が好きな私)家族といる私(穏やかな長男の私)友人といるときの私(積極的で口が悪い私)そのどれもがれっきとした「私」であり、 これが本物!みたいな人格があるわけでもない。

 

我々は「私」という属性を纏って生活している。

さながら洋服のように。

 

そして我々はTPO(時と場合)に応じて適切な服を選択して外に出るものだ。

スーツで遊園地に行ったり、半ズボンで企業説明会に行くと周囲から浮いてしまうように、職場で急にわがままな甘えんぼになっちゃったり、会社でのビジネスライクな言動を家庭に持ち込むと必ず違和感や軋轢が生まれてしまうのである。まあ基本的には我々はこういうことをしない。とにかく我々はTPOに応じて「私」を纏う。

 

厚着の人、薄着の人

 

次に僕が話したいのは、人によって服が厚着だったり薄着だったりするということだ。もちろん基本的には寒い環境であれば厚着をすべきだし、蒸し暑い環境であれば薄着をすべきだが、着目すべきは人によって寒がりだったり暑がりだったりするということだ。環境に関係なくいつも薄着の人、厚着の人。または薄着のときと厚着のときのギャップが激しい人。

 

具体例をあげれば、どこに行っても素そのものみたいな人も世の中にはいる。(僕のこれまでの論調だとありのままの自分なんてものは存在しないという考え方になるのでこう言い方をした。人は環境に依存せずに生きることはできないので、自分に付随する全ての記号・属性を脱ぎ捨てると自我を失うことになってしまう。)

なんだか突き抜けていて生きやすそうに見える。「ああいう人は自分を繕わずに楽そうだな」と周りは思う。これが薄着がちの人だ。

 

あるいは、プライベートと職場とでキャラが全然違う人。

休日はほんわかしていておっとりしているのに職場だとビシッと変身する人(偏見だけど女性に多い気がする)あれは何なんだろうな...仮面ライダーみたいだよね。原理はわからないけど、家でパジャマばかり着ている人が外に出た途端かっちりとしたスーツを着こなす、そんなイメージだ。こういう人は大抵責任感や正義感が強く、「こうでなくては」というビジョンをしっかり持っている。自分にも他人にも厳しい傾向がある。

気がする。

 

劇場空間型都市の解釈

 

さて。

ここでようやく主旨のほうに踏み込むことになるが、

「都市とは劇場である」という考え方がある。

これはどの分野の人がこの言葉を口にするかによってニュアンスが大幅に変わってくるのだけれど、今回は僕が大学で取り扱っていた建築及び都市計画の観点から説明してみる。

 

ディズニーランドの来場者は「ゲスト」と呼ばれる。(従業員はキャストという。)ゲストはディズニーランドにおいて「ディズニーランド的な」振る舞いをする。早い話がミッキーのカチューシャをしたりする。新宿でミッキーのカチューシャをして歩いていたら結構浮くし、おかしい人だと思われてしまう。なのに舞浜にある大型遊園地の敷地内では全然浮かない。むしろ普通のことだ。

新宿では浮く、ディズニーランドでは浮かない。

 

これを説明するためにはディズニーランドを「劇場型遊園地」と呼ぶ必要がある。

つまりディズニーランドにおいて来場者は「ゲスト」を「演じている」のだ。

「劇団四季」の「ライオンキング」で役者が上半身裸でライオンのたてがみをつけるように、「ディズニーランド」のゲストはミッキーのカチューシャをつけるのである。

 

ちなみにそういった「劇場型」の空間において、「演じない」という禁じ手を取ると場がすげえ白ける。「このソフトクリームって原価いくらなんだろうね」とか「こんな夏場の日って着ぐるみの中暑そう」とかね。これは折角劇場においてゲストを演じている人の目を覚まさせてしまう機能を持っていて、目を覚ますと「環境に踊らされてはしゃいじゃってる自分」が露呈して恥をかかかせることになる。

ので絶対にやっちゃだめだよ!場にそぐわない、「劇場」で「劇場」を否定する発言をする人は現実主義なのではなくて単に「その場」に「ノれない」KYなので注意が必要。

 

無数の属性を纏う我々 

 

これと同じことが、日常のあらゆる場所で起きている。

これが劇場型都市空間の考え方だ。

 

渋谷にいる人は渋谷の人間を演じている。

新卒は「新卒」を演じているが、

地元に帰れば「先輩」を演じるだろう。

ある人は会社では「部長」を演じ、

家庭では「父親」を演じているだろう。

SMクラブに行ったら「マゾ」を演じるかもしれない。

 

こんな風に僕たちは自分で認識している以上にあらゆる属性(=服)を持っている。さながらTwitterのハッシュタグみたいに。

 

アンディ#筆者 #明るい先輩 #ドジな部下 #長男 #兄貴 #友人 #マラソン選手 #東京人

 エトセトラ、エトセトラ....挙げ出せばキリがない。

 

 

 

最後に僕の見解として、都会の人は厚着で、地方の人は薄着というイメージがある。もう少し厳密に言うと、都会の人は薄着でいられる円が小さく(最小単位は自分の部屋だ)地方の人は薄着でいられる円が大きい。パジャマで近くの自動販売機まではセーフだけどコンビニは無理、みたいな(笑)

これは都会の核家族化とか地域毎の交流の密度とかが複雑に影響しあった結果だと推測する。が、またここに踏み込むと文章が長くなるのでよす。

 

本当に愛嬌があって根明(根暗の反対)な人が都会にいると、本人は薄着なのに「この人はどうしてこんなに厚着なんだろう?」というあらぬ誤解を受けるという悲劇も起きたりして、っていうかこないだ起きたんだよね。

 

そういうときに僕たちがどう振る舞うのか、

また今言ったみたいな悲劇が起きた時にどう対処すべきかというのは

現在担当の者が調査していますのでお答えしかねます....。

 このあたりは宿題にさせてください....。

 

 

おしまーい!

 

andy0330.hatenablog.com