襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

仕事の質が向上するたった1陣の風

 

mixiか何かでバトンってあったなぁ。確かmixiか何かで。

バトンっていうのはブログにおいて、とあるお題があって、それに対して自分なりに答えて、次は誰に答えて欲しいのかを最後に付け足すことで同じ質疑応答を次に紡ぐ、みたいな遊びだった。確か。

 

このタイトルは友人のブログ(正確にはブログではない)の記事を拝借したものだ。

拝借というか、略奪したというか。人が持っていたバトンを奪い取って駆け出したような気分もするが、人と同じタイトルで記事を書くということを一生に一度くらいやって見たかったので許して欲しい。

 

 

仕事の質が向上するたった一陣の風

「仕事の質が向上するたった一陣の風」などという常套句は地球上には存在しない。友人によって先日生み出されたフレーズだ。「仕事の質が向上するたった〜」までが手垢がつきまくった常套句で、後半に「一陣の風」というそもそも聞く機会の少ない言葉がくっついていることで新鮮な感じになっている。僕なんかは「一陣」と言われて「一塵じゃないのか」と疑ったりして調べたけど「一陣」が正しい。

 

 

 

 

「仕事の質が向上するたった一つの方法」であれば、例えば時間を測るとか、ショートカットキーを全部覚えるとか、何かしらの革新的なスキルが提示されるべきだと思うのだけれど、一陣の風となるとまた異なる解決法が期待される。

ましてや風である。

 

まとまった風のイメージ。

 

びゅう!

 

 

 

風は目に見えないんだけど、エネルギーだ。

向上する風となれば、それは僕の背からやってきて進行方向に吹き抜ける。前進を促すプラスのかたまり感のあるエネルギー。自転車に乗っていると追い風が最高に気持ちいい。「漕いでないのにグイグイ進んじゃう!」っていうのは追い風のおかげだ。そういう、「漕いでないのに!」感があるな。一陣の風には。

 

 

仕事の質の定義

順番が前後するが、「仕事の質」とは。

質っていうのはクオリティーのことだ。品質。質感。材質。

質と量、と言われるようにこの二つは対照的な存在だ。だから、「10分に1つのメールを送っていたのが、10分に5つも送れるようになりました!」っていうのは仕事の質が向上した感じがしない。それは「仕事がいっぱいできるようになった」だけであって、質とは言わない。質っていうのはもっと捉えどころのない漠然としたものだ。結果としてすぐに黙視することができないものだ。ノルマとか売り上げとか統計ではなく、信頼とか感謝とか誠実とか、そういうものに「質」は似合う。

 

それはすぐに効果がでるインスタントなものではなく、ともすればちょっと地味で、「なんだそんなの」って感じで、そのくせ実践してみると確かに自分の仕事を、実務とは別のチャンネルから、かたまり的に後押ししてくれるものだ。

そういうものを考えて見た。僕の考えた「仕事の質が向上するたった一陣の風」とは。

 

 

 

 

 

相手に話すときに相手の名前を添える。

相手に感謝するときに「ありがとうございます」だけでなく、「佐藤さん、ありがとうございます」と言ってみる。「それメールで送ってください」じゃなくて、「吉田さん、それメールで送ってください」と言ってみる。

 

自分の名前を呼ばれると嬉しい。特に、大事な用事じゃないとき。取るに足らない用事(それ取って、とか、ちょっときて、とか)の時こそ名前を添えられると丁寧な印象を受ける。また、ちゃんと自分に、自分のためだけに用意された言葉を投げられた気持ちになる。これって、結構嬉しいんだ。そよ風みたいに。

これを毎日続ける。

そよ風は集まって、いずれ一陣の風になる。

 

ちょっとした丁寧の、心遣いの連続が信頼をつくる。「あの人はなんか丁寧で感じがいいから、まあ手伝うか」と言われる人になる。これが結果として仕事の質を向上させるというわけだ。

 

ぜひ試して見てください。

 

 

おしまい

 

 

 

 

同じ穴のムジナ

同じ穴のムジナ

朝パッと起きた時に、「同じ穴のムジナ」って否定的なニュアンスを間違いなく含んでいるなと思った。ほんと、なんの脈絡もなく。それで歯を磨きながら「私も結婚する前教師だったんです。同じ穴のムジナですね」なんていうセリフを考えて、いや、絶対言わないだろうと確信した。

 

通勤電車に乗る。

ところでムジナってずっと虫だと思ってた。

多分「ムジ」の部分が虫を彷彿とさせるんだな。

せみの幼虫みたいに木の根のそばにある土に穴を掘って外の獲物を待っている感じの虫...ジメジメしていて多分、害虫。そんなイメージがあった。

 

 

違った

 

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こんなだった!ムジナ!!ねえ知ってた?!

これって常識なのかしら?!?!僕だけが今日まで知らなかった常識なのかしら?!?!

ムジナってアナグマのことなんだって。アライグマみたいなもんらしい。

だから同じ穴のムジナって同居してるアナグマのことだったんだ。全然そんなイメージなかったや。

 

肯定的に使う場合

それで僕はしばらく通勤電車でまどろみながら考えてたんだけど、「同じ穴のムジナ」ってもっと肯定的に使いたい場合のちょうどいい言葉ないかなって。「あー僕も一緒なんですよー同族ですね!」みたいなのをちょっとおしゃれに慣用句で表現する言葉ってできないかなぁと思って。そこで思いついたのが

 

「同じ梅のメジロ

 

「私も結婚する前教師だったんです。同じ梅のメジロですね。」みたいな感じで。

いいでしょ風流で。自分で気に入っちゃった。

会社のランチタイムかなんかでさりげなく使ってみてください。

 

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おしまい

 

コミュニケーションには3つの種類があるという話

 

 

僕が思うに、コミュニケーションには大きく分けて3つの種類がある。

それは僕の人との関わり方みたいな部分に密接に関わってくると思うのだけれど、なんだか今ならかけそうな気がするので書いておく。多分3部構成くらいで書けば終わる気がする。

 

コミュニケーション。僕は今回これを「喋ること」に限定して思索する。科学的根拠やソースはどこにもない。僕は僕の体験を通じて精一杯考えたことを発表する。

 

さて、とにかく3つを紹介してみる。

 

 

・馴れ合いチャンネル

馴れ合いのチャンネル、というとすごく聞こえが悪いけれど、うまく伝わるのは「馴れ合い」だと思う。ソフトに言い直すなら「親睦」と言い換えられるかもしれない。

親密度をあげたり、あるいは単純に暇だから喋るとか、お互いが絶対に傷つくことがない表面的なやりとりのこと。

 

「こないだ見た番組でさ〜」

「どちら出身なんですか?」

 

 

 

 

 

・情報伝達チャンネル

相手にとって必要なことを正確に伝える事務的なチャンネル。相手に与える印象や言い回しよりも間違いなく伝わることが大切とされる。

「明日9時に駅前に集合だからね」

「こないだの噂、嘘だってよ」

 

 

 

 

・ダイアログチャンネル

議論とか言い合い、話し合いとか。馴れ合いを「会話」と呼ぶなら、僕はこれを「対話」と呼びたい。どうしても適切な日本語が出なかったので「対話」を直訳した。

どこかに行き着く為にお互いに意見を出し合う共同作業。うわべのやり取りでもなければ事務的な情報伝達でもないので自分が傷つく可能性がある。つまり心の刺し合いに発展する可能性を持っているのだけれど必ずしもそんな深刻なものばかりでもなくて、例えば、男子高校生が修学旅行で好きな子を打ち明け合うようなシチュエーションには僕はダイアログを感じる。「私という存在」「あなたという存在」と表現しうるパーソナリティに関わる会話とも言える。

 

 

 

僕はこの「ダイアログチャンネル」に着目したい。

(ちなみにこのダイアログチャンネルという言葉は僕が考えた造語なので、こんな無茶苦茶なフレーズは誰に言っても通じないので注意)

ただその前にこの3つについての理解を深めないことには話が前に進まないので、せっかく分類した3つのチャンネルを使って関係性を語りたい。

 

 

地雷。

夫婦が普通に、和やかに話していたはずなのに相手の地雷を踏んでしまって急に険悪なムードになってしまうシチュエーションは誰でも容易に想像できるのではないか。

 

「いやーここのレストランのオムライスは絶品だな。」

「こっちのハヤシライスも美味しいわよ。並んだ甲斐があったねぇ」

「こんなオムライスなら毎日でも食べられるな。一生食べたいくらいだ。」

「それどういう意味?私の料理ってそんなにまずいの?」

 

こんな具合だ。まあここまでテンプレな会話はないにしても、近しい話の流れで「おや、今まであんなに和やかだったのに雲行きがおかしいゾ」という冷や汗を背中にかいた人は、多分、男性に多い(笑)

この会話について考察する為に冒頭のチャンネルを使って検証してみる。

 

「いやーここのレストランのオムライスは絶品だな。」(馴れ合いc)

「こっちのハヤシライスも美味しいわよ。並んだ甲斐があったねぇ」(馴れ合いc)

「こんなオムライスなら毎日でも食べられる。一生食べたいな。」(馴れ合いc)

「それどういう意味?私の料理ってそんなにまずいの?」(ダイアログc)

 

 

問題は明らかに3行目の「一生食べたい」発言だ。

夫はその前からの会話の流れでオムライスがいかに美味しいかを強調したに過ぎないのだけれど、妻にはそれが自分の普段の料理と比べられたように感じてしまったわけだ。

 

男性としては、というか僕もそうなんだけど、「今まで普通に馴れ合いであんまり頭を使わずにお互い傷つかないような取るに足らない話をしてたんだから、いきなり"お前の料理はまずい"というようなニュアンスを打っ込むわけないだろ。」と唖然とするわけだけれど、もしかしたら女性はダイアログチャンネルの傾向が男性よりも強いのではないかと推察する。

 

女子会とかまさにそうだ。僕は前に女性ばかりの職場で働いていたことがあるのだけれど、そこでの飲み会は一見なんの意味もない、相手を傷つけない「馴れ合いチャンネル」に固定されているように見えて、その実ものすごい濃密な情報伝達とダイアログ的会話が繰り広げられている。フラットに言えば「マジで話してる」感じだ。

比べて男性はダイアログチャンネルが弱い傾向があるのではないかと今ふと思った。

「腹を割って話そう」という言葉は、普段は腹を割らないからそういう言葉が生まれるのだ。女性は最初からマジだ。刺し合い覚悟で自分と相手の気持ちを真剣に観察しながら会話する。機会が男性よりも多いように見受けらえる。

 

 

というところまで考えてみた。

だいたい僕が繰り広げたい考え方のシルエットはご理解いただけただろうか。

次回は(もし書く気力があれば)この3つのチャンネルを使って日常のコミュニケーションのあれこれを思索したい。

 

 

この辺りのアイデアについて読みたいなーとかねがね思っている本はこちら

 

 

対面的: 〈見つめ合い〉の人間学 (単行本)

対面的: 〈見つめ合い〉の人間学 (単行本)

 

 

読んだらこの話にも深みが出るかしら。

 

 

おしまい

 

何かを所有することで、ひとは地上に一つずつ縛り付けらる。の解釈

 

 

 

ミニマリスト週間、最後の記事になります。

とりあえず僕が引越しをするにあたって自分の部屋にひしめく物・物・物にうんざりして書き始めた今回の記事たちなのだけれど、後一個書けば僕としては言いたことは全て言ったことになるので、今回がミニマリスト系の最後の記事になります。

僕はミニマリストではないですが。

 

タイトルと冒頭で紹介した江國香織「何かを所有することで、ひとは地上に一つずつ縛り付けられる」という言葉が僕の中に非常に刺さっています。すごい説得力がある言葉だなと感じた。

 

これが結構抽象的な表現なので、一番コンテクストを下げて意訳するのであれば「ものを持ちすぎると移動できなくなる」と言えるのではないかと思う。

移動っていうのはいくつか意味を持っているので順繰りに紹介するとまず

 

 

 

旅行できなくなる

人を旅行できなくする最大の持ち物ってなんだと思います?

僕はペットだと思う。犬ならまだなんとかペットショップに預けられるにしても猫は預けるのも結構難しい。現に僕の身の回りの猫オーナーは全然旅行をしない。泊まりの旅行を嫌がる。だって家に猫がいるから...と言う彼らはしかし困った表情を浮かべずに、「当たり前でしょ」と言う顔をしている。つまり、「猫がいるから旅行できない。全く迷惑なものだ」とは思っていない。猫がいるんだから私は旅行なんてしない、と考えているのである。

つまり厳密に言えば猫を所有していると「旅行できなくなる」のではなく「旅行する気がなくなる」と言うのはほんとうは正しいのだと思う。

 

引越しができなくなる

人を引越しさせなくする最大の持ち物ってなんだろう。

これは人によって答えはまちまちだと思う。どの質問においても答えは一つではないのだろうが。例えば車があげられる。車があると引越しの選択肢は一気に狭まる。

どの家に済むにしても、自分の帰る場所と車の帰る場所を両方確保しなくてはならない。駐車場がついている家ならまだいいが、なかった場合今度は駐車場の不動産選びをしなくてはならないので二倍の手間だ。

自分が住む家の家賃を推し量った後に今度は車の家賃を勘定に入れなければならない。それが結果として「家はいいけど駐車場がだめ」とか「駐車場はやすいけど家賃が高い」みたいなことが起こる。そして最終的に引越しができなくなる。条件が厳しくなってしまうから結果移動が困難になる。車を手に入れることによってどこにでも行けるようになった代わりにどこにも行けなくなったのである。

 

また先ほどと完全に重複するけどペット。

こう考えるとペットって重いよなぁ....。途中で売ることなんてできないし、捨てるわけにもいかないし。ペット可前提の家探しをはじめて、そして大抵そういう物件は普通よりも高い。今まで住んでいた家もクリーニングして引き払わないと行けなかったりしてとにかく重い。結果として引越ししなくなる。「この子がいるし」とか言って。これは普通に子供とか、配偶者とか、家族にも当てはまる要件ではあるが、今はミニマリストというチャンネルで所有について考えているので家族についてはあまり考えない。

 

あるいは大型家電。具体的には冷蔵庫のことだな。テレビも入るかもしれない。

「この物件、条件があれこれ揃ってるけど今持っている冷蔵庫が入らない」なんて最悪のパターンだ。そんなことになっても冷蔵庫を良い値段で売り払うことなんてほとんどできないから諦めるか、あるいは手放して新しい冷蔵庫を買うことになる。

引越しをする場合に考えないと行けない項目が家電のぶんだけ増えていく。

テレビの配線はどこにあるんだろう。ソファーってこの部屋に合うのかな。炊飯器のコードはどうやって配線する?洗濯機の寸法をメモした紙ってどこに言ったっけ.....etc

家電を多く持っていると間違いなく引越しの難易度は跳ね上がる。難易度というか、ハードルっていうのかな。

 

 

新しいことを始めにくくなる

例えば、経済的に。バイクに乗ってて、ネット使い放題のプランに入っていて、ネットフレックスと契約していて、今度冷蔵庫の修理を依頼しなきゃ。そんな日々を送っていると「ちょっとたまには映画館に行こうかな」とか、「友達にテニススクール誘われたからはじめてみようかな」という気持ちが全然わかなくなる。

今のペットが病気になったら。今持っている家電が故障したら。今月の電気代いくらになるだろう。ローンの支払いって後何回残ってるのかな。そういう心配事を毎日抱え込んでいるマキシマリストは新しいことを始める余裕がどこにもない。

これ以上ものを増やすのは嫌だなという意識が常にあるし、そもそも所有物が貯金残高を圧迫していくのでそういう余裕が生まれないのだ。

新しいことを始めるっていうのは、あたらしいステージ・世界を覗きにいくことだからこれもまた移動と言える。そういうフットワークの軽さを人は失うことになる。

 

 

以上のごとく、ひとは所有するごとに一つずつ地上に縛り付けられる。

地上っていうのは僕の解釈で言えば「今の環境」のことだ。この今の環境から、例えば旅行だったり、新しい趣味の世界だとか、そういうところへ「移動」できなくなっていくのだ。様々な要因によって。

 

僕は移動するのが好きだ。旅行も好きだし。

だから動きやすくしておくためにものはあまり持ちたくない。

現代人なのでミニマリストのような生活はできないが、それより一つランクの低い「比較的ものを持たない暮らし」くらいならできそうな気がする。少なくとも目指す価値はあると思う。

 

ものをたくさんもっていて、それで幸せなひとももちろん世の中にはたくさんいるだろうが。僕は移動したい。これまでだってずっと移動してきたし、これからだって少ない荷物と一緒に移動し続けて新しい景色を見にいくことを諦めずに生きていくつもりだ。

 

 

 

おしまい

読んでくれてありがとう。

タイトルのセリフはこちらの本に登場します。

 

 

神様のボート (新潮文庫)

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所有に関する僕の3箇条

 

僕はミニマリストではないし、なることもできまいと思う。

なにせものが好きだからな。お買い物も好きだし。

ただ、人よりも捨てるのは容赦ないタイプだと思うし、人よりかなりものは少ないと思う。具体的には持ち物は多分300個は切ってると思う。プチミニマリストというべきか。断捨離アンの方が正しいのかもしれない。

 

僕がものを持つことに関する基準が

3点あるのでここに書き留めておく。

 

家電持たない主義

主義というほど大仰なものではないが、家電が好きになれないのでほとんど持っていない。ケトルとアイロンが唯一の生活家電ではないかと思う。一応大学は工業デザインを卒業しているのだけれど....。

電子レンジとか。冷蔵庫とか。炊飯器。テレビ。エアコン。

持つことを考えると正直ゾッとする。

 

僕は今25歳で独身なのだけれど、そういう家電は家庭を持ってからでいいと思っている。多分その背景として僕は子供の頃から親がよく引越しをしたので、家電がいかに面倒で厄介なものなのかを知っているというのがあると思う。だから僕は家具備え付けの家にしか住まない。家電を所有したくないからだ。

というか、そもそも同じところに長い間住むことに魅力を感じない。だいたい2,3年住んでいれば飽きてくるし、ずっと同じところに住んでいると知らないうちに部屋がものだらけになってしまうので換気する意味合いでちょこちょこ住まいは変えたい。そしてそういう引越し願望を持っている人間に家電は向いていない。

 

先ほど僕は工業デザインを専攻していたということを書いたけれど、当然だから僕はプロダクトの造形はきにするタイプだ。ケータイがあれば角の仕上げを気にするし、椅子があれば接合部部分や背もたれの材質が気になる。

当然世の中にはより良い電子レンジやより良い冷蔵庫のデザインをしている工業デザイナーが日夜頑張っていることは理解するけれども、それでも「家電なんてなんでもいい」という意識がどこにもあって、いわゆる「白物」「箱物」に対する僕意識はノーデザインだ。冷蔵庫は冷えればよくて、取っ手の形にこだわりはないし、色もどうでもいい。紫でも虹色でもものが冷えればいいや。そういうこだわりがないジャンルのものに対してお金を払うか、となるとやはり払わない。そういう思考回路故に僕は家電を持たない。

 

納得したい主義

ロードバイクは最高だ。レース競技のために設計されたマシンなので、全ての機能が合理的に用意されていて、それに乗ってスピードを出すとすごく気持ちがいい。ロードバイクに乗る楽しさは「合理的なものに乗る快感」みたいなところにあるのではないかと思うほどだ。

納得したものを使いたい。納得のいかないものは持っているだけでストレスになる。

例えば、ちょっとインクの出力が悪いがまだ使えるボールペンとか。僕だったら速攻でゴミ箱行きだ。逆に、僕は普段万年筆で手紙を書くのだけれど、きちんとインクを足してあげればずっと使うことができる。使うごとにペン先のニブが馴染んできてすごく「納得できる」だから、この場合の納得したいっていうのは、単純に合理性とか経済性とか効率性に重点を置いているのではなくて、僕自身が納得して使う気になるかどうかが重要なのだ。だから僕は「まあ仕方ないか」と思いながら使っているものが一つもない。

 

 

勿体無いと思わない主義

例えばちょっと穴が空いたTシャツがあったとして。

みっともないから外では着れないような状態だとして、でも捨てるのは勿体無いと思う。まだ着れるし、近くのコンビニに行く程度だったらバレないかも。あるいは、寝巻きにしてもいいと思う。そうやってごまかしごまかし使っていって、洗濯するごとに「もうさすがに捨てようかな」「まあでも洗っちゃったしもう一度だけ着るか」を延々と繰り返す羽目になる。そういうのが僕は嫌なのだ。

ものを捨てるのは勿体無くない。そのTシャツが2000円だったとして、それを捨てると2000円を捨ててしまうような気持ちになる。でもそれは間違っている。あなたが2000円を捨てたのは2000円を払った瞬間だ。

すでに物質に変わってしまったものには価格ぶんの価値はない。もちろん電子機器とかギターとかであれば売却の余地があるだろうが、基本的に我々はそれを買った時に「勿体無い」ことをしているのであって、買った後のものを捨てて勿体無いと思うのはなんだか筋違いだ。

 

 

 

以上3点を心がけて生活していると普段からものが少なくて済む。

ものが少ないとメンテナンスする機会が減る。電池を入れたり、部品を外して掃除したり、磨いたり、修理センターに電話したり、そういった発展性のないことに時間をかけるのに僕は全面的に反対する。そういう時間は極力0にしたい。壊れたら捨てて新しいものを買いたい。そのために僕は元からものを少なくしている。

 

上記の3つはあくまで僕が自然にしている時の意識を買いたものであって、「これを守り抜くぞ」と意気込んで頑張っているわけではないので悪しからず。

とにかく、来月に引越しをするのだけれど無事、車1台が1往復でで事足りそうで僕は大変に安心しているのであった。

 

 

 

おしまい

 

どうやらものを買っても幸せになれないが、ところで世界中がミニマリストになったら世界は滅びるのだろうか

 

 

 

以前書いた通り、引越しをすることになった。

 

andy0330.hatenablog.com

 

引越しの何が面倒って、当たり前だけど荷造りと荷ほどきだ。

自分の部屋を見渡してうんざりする。この部屋にやってきた時はこんなにものはなかった。本当に不思議なことだけれど、持ち物は部屋の大きさを上限にして限界まで膨張していく。荷造りを想像する。まずは本だ。勉強の本、漫画、集め出してしまった雑誌...。次に服だ。服は引越しに置いて一番鬼門だと思う。意外とかさばるし、そして重たい。冬服も荷詰めして...ハンガーとかどうすればいいんだろう。

あとは家具か...。僕は家具備え付きのシェアハウスに住んでいたので電子レンジも冷蔵庫も所有していないけれど、それにしても毛布やテーブル、アイロンなどの生活必需品は全て引越しの際に動かさなければならない。

この部屋から、次の部屋までこれらの荷物を運ぶ様を想像する。いやーどうするんだろうこれ。レンタカーとかカーシェアリングを使って運び出すのかな。ここ2階建てだからテーブルとかは抱きかかえて降りるんだろうな...。面倒くさいなー。こんな時カイリキーがいたらなー。考えれば考えるほど引越しは面倒くさく、額の生え際に冷や汗が出て来る。じんわり。

 

あーあ、僕がミニマリストだったらなぁ

 

と呟く。

もしも僕がミニマリストだったら、荷物なんか40秒でスーツケース1個にまとめてぽいぽいぽい〜って引越しできるのにな。あ、全然関係ないんだけど、こないだお客さんと電話してて図面の修正依頼を受けたんだけど、そのお客さんがパソコンを操作しながら電話しているらしく、「あーちょっと待っててね。図面データ開くから...えーっと..これだ、ぽいぽいぽーい。」と言って唖然とした。俺がデータ開くときと同じ効果音だ.......。こんな効果音使う人僕とローラくらいだと思った。どうでもいいけど。

 

andy0330.hatenablog.com

 

andy0330.hatenablog.com

 

こんな風にミニマリストを気取って、自分の持ち物を点検した時代もありましたね。

断捨離についてすげえなぁって思うのは、断捨離って、当然とある段階でおわると思うのだけれど、(これ以上は何一つ捨てるものはない!というのが断捨離の終焉だ)その瞬間から持ち物が増えていくんだよね。ボールペンやクリアファイルと言った軽いものから始まって、本、服、家具、電化製品と、ものは僕たちの生活をゆっくりと侵食していくんねえ。その人の平米数に比例してさ。

 

消費。

そう、キーワードの一つって消費だと思うんですよねー。

19世紀ごろから今日に至るまで、一つのキーワードは消費だと思う。

戦後の日本の高度経済成長を支えた一因として「ものを買って豊かになろう!」みたいな物質主義の意識があったからこそ、っていうのはあると思うんだけど、21世紀になってそれもちょっと雰囲気が変わってきた気がする。

 

なんかもう豊かになっちゃったよねー。

 

という白け感とか。

 

映画館もフリマもゲームもカーナビも、もうスマホがあればいいんだよね、

 

だったりとか。

 

世の中に商品が消費を上回るレベルで出尽くしてしまって、何を持ってても対して人に自慢できなくなったりして、同時にSNSが高速で発達してきたせいで「もの<こと」っていう意識が浸透して、珍しいアイスを食べるために原宿の有名なお店に並んでパチリしたinstagramを投稿!みたいなことに価値が出てきたりして。

 

 

”ものを買っても幸せにはなれない。”

っていう資本主義における最大の魔法が今解かれようとしている。

極端な話、全ての人がご飯を食べるだけのお金があればそれでいいや、と言い出したら明日にも資本主義経済は破綻するだろう。なぜなら資本主義は人間が持っている「もっと」という根源的な欲求を前提に作られたシステムだからだ。

 

 

えーっと何が言いたかったんだっけ。

そう、引越しが面倒臭いって話だったんだ。それで、ミニマリストだったら引越しも楽チンなのになーって思って、でも資本主義経済は「もっと」という欲望を前提に作られているから、消費を推奨しているし、僕たちにしても常に何か買うものがないか探しているし(消費について考えるときAmazonほしい物リスト、みたいな考え方ってすごく面白いヒントになると思う)企業側も常に何が売れるのかを考え続けている。

 

だからもし全ての人がミニマリストになったら資本主義って崩壊するよね。と思ったわけだ。でもまあそんなことありえないじゃん、っておっしゃるかもしれないけれど、スマホでなんでもできるようになったり、所有から経験に価値が移行しているようなことが高速で起きているイノベーションの渦中である2010年代の現代において、資本主義最大の魔法である「消費をすれば幸せになれる」が解け始めているのではないか。と唱えて見たんだった。

 

結果としてテクノロジーの進歩とそれに伴う人の価値観の変化がもう少し長いスパンで発生したとして、というか多分起こるんだけど、そうするときっと、また社会主義に対する議論が巻き起こったり、資本主義と社会主義のハイブリッドのようなものの模索が今一度行われたり、あるいは資本主義でも社会主義でもない、新しい第三の経済モデルが生まれるかもしれない。

 

そういうものが生まれたとしたら、それはきっと競争ではなく協力に重点が置かれており、分配ではなくシェアリングに注目が集まるだろう。それは全く新しい世界というわけではなく、その光景はyoutubeであり、Airbnbであり、カーシェアリングであり、Netflexであると言えるだろう。つまり、そんな世の中はとっくにきていて僕たちはそれを普段からツンツンタッチして発展させているではないだろうか。

 

そんなことを考えたとしても、とりあえず部屋の荷物は片付かないのであったー。

 

 

 

 

おしまい

 

人の人格は24歳で決まる

 

何かの文章で読んだので、全然責任を取れないのだけれど、それでもこの文章を書くことに意味を見出しているので書くのだ。

 

人の性格は24歳で決まる。

そのあとは、どんなにショックな出来事があろうが、素晴らしい啓示に出会おうが、骨格としての性格は変わらない。らしい。(科学的根拠もないし、今となってはソースもない。ただ、24歳で決まるという文章を読んで、僕がすごく納得してしまったというだけのことだ。)

だから僕は24歳に満たない若者に対しては「24歳までにたくさんのことに出会って

心を磨こう」みたいなことを偉そうにいうのだけれど、問題は24歳を過ぎた僕たちがこれからどうしたらいいのか、だ。

 

24歳を過ぎた僕たちは「人の人格は24歳で決まる。」に対して、「じゃあもうダメなのかぁ」とうなだれるしかないのか。

そうではない。

少なくとも、僕はそうは思っていない。

 

ここで、僕の大好きなスヌーピーの名言を送りたい。

 

 

 

 

 

 

 

「配られたカードで勝負するしかないのさ」

 

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僕はこの言葉に初めて出会った時に、雷に打たれたような衝撃を受けた。

これは性格だけでなく、自分という存在に関する全てに対して当てはまることで、生まれつき耳が聴こえないとか、一重まぶただとか、肌が黒いとか、滑舌が悪いとか、音痴だとか、同性しか好きになれないとか、毛深いとか、口が悪いとか、せっかちだとか、怒りっぽいとか、そのどれもが、神から配られたカードであり、言葉通り、配られた以上は僕たちはそれで勝負するしかない。

 

 

24歳を過ぎたから(何度もいうけどこの言葉の科学的根拠なんてどこにもないし、嘘っぱちかもしれないが、僕にはやけに刺さっていて、なんとなく信じているだけだ。)

性格は変わらない。これは、ある意味ラッキーだ。歌が下手だから、歌手にはなれない。目が悪いから、ボクサーにはなれない。宇宙飛行士やケーキ屋さんになりたがっていた僕たち(私たち)は、歳をとるにつれてその選択肢が狭まっていく。でも、それで正しい。いつまでも全ての選択肢が用意されていたら、僕たちは目移りしてしまって何者にもなれない。「私にはこの仕事しかないんだ」と覚悟を決めることができない。

 

それと同じことだ。人見知りで、太りやすくて、すぐにサボる癖があって衝動買いを我慢できないあなたは、もうその性質を変えることはできない。でも、変わらないからこそ、つまり手札がわかっているからこそ勝負できるのだ。

僕はマラソンをやるのだけれど、いつもより気分がいいからってペースをあげるようなことはしない。それは僕がずっと走り続けてきた中で、どのくらいで走るとバテてしまうかがわかっているからだ。長い時間をかけて自分の体と対話してきたので、「じゃあその体でどうやって進むのか」ということについて作戦を立てることができる。

 

 

覚悟を決めよう

 

僕たちはもう、多分、総理大臣にもサッカー選手にもなれない。

でも、覚悟を決めよう。誰にでも間違いなく手札は配られている。それは人よりも枚数が少ないかもしれないし、気に入らないカードばかりかもしれない。でも、「配られたカードで勝負するしかない」のだ。

その手札から目をそらさずに、きちんと向き合って、

その体と、その心と一緒に、人生を戦っていこうよ!

 

 

 

おしまい