襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

作法

 
 
さしていないときの、傘の持ち方。
 
 
よく先端を後ろにして逆手に持つ人がいる。江戸時代の刀のように。
あれはすごくみっともない感じがする。
腕のふりに合わせて先端が持ち上がってきて人に当たったり、
歩行中にうしろに子供がいた時の危険性を全く考慮していない感じがするからだ。
 
 
 
 
しかし同時に、女性がそのような傘の持ち方をほとんどしないことから、
これは男性本来の「棒状の武器になり得るものを利き手と反対に持つ」武士の作法の名残なのではないかと考えるとなるほどと考えさせられる。
 
 
 
 
 
 
 
パスタを食べる。
 
 
 
パスタはフォークで巻き取り、音をたてて食べるのがイタリアでの作法で、
原理は日本の蕎麦と同じなのだけれど、音をたてて勢い良くすすらずに食べた場合、
麺が口に入るまでにスープやつゆが流れ落ちてしまう。
 
ところが日本でパスタを食べる時に音を立てると「なんて無作法なやつなんだ。」と眉をひそめられてしまうのがおちだ。僕でもそう思うだろう。
 
 
「イタリアではこっちが正当なんだ」と主張しても「しかしここは日本なのだから日本の常識に従うべきだ」と窘められてしまう。
 
 
そのわりに正統なフランス料理店などに行くとあたふたして、額を寄せ合ってフランス流のお上品な作法を確認しあっていたりする。矛盾だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
作法とは一体なんだろう。
ある限られた空間の中で絶対的に守らなければならない、
あるいは守らなければ淘汰されてしまう理不尽なルールなことだ。
 
 
 
 
茶道なんてそれの最たる例だ。
 
 
 
畳の中で指を付かなければならないポイント。挨拶のタイミング。
お茶を戴くまでの面倒なプロセス。
 
その理不尽なルールを厳格に守ったものだけがお茶を飲むことが許される。
 
 
 
 
 
 
 
かんがえてみれば世の中は作法に溢れている。
右側通行・面接の入退室・酒のつぎかた・人との待ち合わせ・恋愛のプロセス・・・
 
 
 
 
それらは教科書に載ってるわけでも、守らないことで罰せられるわけでもない。作法は目に見えないかたちでそこに悠然と横たわっていて、
それを守らないものを静かにはじいていくのだ。
 
 
 
 
 
 
作法は、別に守らなくていい。
 
 
 
 
そんなに人に迷惑をかけなければルールから外れたっていいし、
それでうまくいくことも多い。
 
混雑した駅のホーム階段は逆の階段を駆け上がった方が早いし、
車がいない道路は赤信号でも渡ってしまった方が効率的だ。
 
 
 
 
でも、やはり作法を守らない人はお茶を飲むことができない。
 
 
 
 
これはかなり概念的な例えだから解りにくいとおもうけど、
茶室での振る舞いを知らない人間は、家のポットでお茶をいれるか、
自動販売機でお茶を飲めばいい。
 
作法を知らない者が、茶室に押し入って、「すんません一杯飲んでいいすか」とはならない。
 
そこには作法を知っている人だけが浸ることの出来る幸福感、厳粛な空間との一体感が存在する。
 
 
 
がらがらの反対通路を横目にちゃんと並んで階段を登り切ったときのしゃんとした気持ち。
赤信号を駆け足でこそこそ横断したときのせかせかした気持ち。
 
 
誰しもこういう経験1度くらいあるんじゃないかなぁ。
 
 
今回はモラルを説きたいのではなくて、
問いかけたくて書きました。
 
 
 
 
 
 

f:id:andy0330:20131029194144j:plain

 
ノートの罫線を無視して書いたっていい。
でも、きっとそのノートは多くの人は読んでくれないんじゃないかな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広告を非表示にする