襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

「明日死ぬと思って今日を生きる」必要なんてない

 

 

 

タイトル通りの意見を持っている。

とはいえ僕自身やはり表題のような考えに没頭していて、

「毎日をだらだらと過ごしたくない...」「でも毎日充実していたいし、時間を無駄にしたくない」「いつか人は死ぬ。今日という一日の繰り返しでいつか人は死ぬのだ」「そうだ、毎日死ぬ気で生きればいいんだ!」「明日死ぬと思えば今日は一生分の重みがあるはずだ!」という論法だった。

 

実際に「明日死ぬと思って今日を生きてる」やつがいたらびっくりするけどね。だって明日死ぬんでしょう?何もかも必死になってやると思うな。そうじゃなけりゃどうせ死ぬんだし逆に恐ろしく無気力的に生きるかもしれない。

 

そうだよなーだって明日死ぬんだろ?なんかご飯くってもどうせ明日は生きてないんだし、ということは勉強しても明日には仏様だろ?友達つくっても明日にはお別れだし、筋トレしたって明日にはその筋肉は冷たくなってるわけだ。

 

やっぱり「明日死ぬと思って今日を生きる」っていうポリシーを掲げてる人には何となく、意地悪をしたくなってしまう。そういうつもりで生きてたら、生きるとしたら、僕だったら来週の予定なんて立てなくなると思う。つまり生活ができない。

 

 

前に水嶋ヒロが番組で「僕は明日死ぬと思って毎日全力で生きています」言っていて、当時の僕は「うおーーーーかっけーーー!!」と心から感動したわけだけど、どうにも今はそういう気持ちになれない。そして、こういう「明日死ぬ論法」の人がそばにいたら、やっぱり疲れるだろうなとも思うのだ。

 

少し話変わるけど、哲学に「明日なんてものは存在しない」という考え方がある。

明日っていうのは時間が立てばやってくる「今日」なのであって、そう考えると明日も「今日」明後日も「今日」次の「今日」がどんどんやってくる。

そしてその果てにいつか必ず、100%の確率で「明日」がない。

 

 

僕は今、明日も明後日も生きるつもりで生きている。そうしないと手帳の意味がないし、そもそも生きていて楽しくないだろう?来年の自分に思いをはせたりするのもいい。

 

 

しかし同時に死についてもよく考える。毎晩寝る前に必ず死ぬことについて考える。というか、頭をよぎる。「おれもいつか死ぬんだな...。」と考えて、うなされることもある。小学4年生のときに戦争映画を観てから今日まで毎日同じ夜を過ごしている。

 

眠るという行為は死ぬことの予行演習なのだ。人は毎晩死の練習をしているのだ。と言った人がいたと思うけれど、僕の感覚はそれに近い。毎日死んでいる。

 

だから僕は「明日死ぬと思って今日を生きて」いるわけではないが、「毎日死んでいると思って毎日を生きている」のかもしれない。

 

 

最近はもっぱら安心立命を求めてキリスト教の勉強をしているけれど、昔の人は(創世記レベルで)つまりアダムとかアベルとかはだいたい900歳くらい生きたそうだ。ただあんまり人間が知恵をつけてどうしようもない存在だから神様が寿命を120歳にしちゃった。

 

それでまぁ今は公害があったり逆に化学治療が進歩したりして、僕たちは70だか80まで生きるらしい。

 

 

死について考えることは決してネガティヴな衝動ではない。むしろ、死ぬことについて深く考え、死と分かり合うことによって命が光り輝くのではないか。ゴールのイメージをすることで良いフォームになるスプリンターみたいに。