襟を立てた少年

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オメラスから歩み去る人々

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ドラマ「MOZU」の次回予告編にて"オメラスから歩み去る人々"の引用がなされていたので記事にします。"オメラスから歩み去る人々"といえば「マイケル=サンデル 白熱教室」でも扱われていた題材だ。

 

 

 

この"オメラスから歩み去る人々"はル・グウィン著『風の十二方位』に収録されている短編小説、いや、寓話に近い。ちなみにこの著者はなんとあの"ゲド戦記"を執筆した人でもある。

 

 

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)
 

 

 

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さて、"オメラスから歩み去る人々"のあらすじはこのようなものだ。

 

 此処ではない何処か遠い場所に、オメラスと呼ばれる美しい都がある。
 オメラスは幸福と祝祭の街であり、ある種の理想郷を体現している。そこには君主制も奴隷制もなく、僧侶も軍人もいない。人々は精神的にも物質的にも豊かな暮らしを享受している。祝祭の鐘の音が喜ばしげに響き渡る中、誰もが「心やましさ」のない勝利感を胸に満たす。子供達はみな人々の慈しみを受けて育ち、大人になって行く。

 素晴らしい街。人の思い描く理想郷。しかし、そのオメラスの平和と繁栄の為に差し出されている犠牲を知る時、現実を生きる自分達は気付くのだ。この遥か遠き理想郷は、今自分が立っているこの場所の事なのだと。
 オメラスが求めた犠牲。それはこんな姿をしている。

“オメラスの美しいある公共建造物の地下室に、一つの部屋がある。部屋には錠のおりた扉が一つ、窓はない。わずかな光が、壁板のすきまから埃っぽくさしこんでいるが、これは穴蔵のどこかむこうにある蜘蛛の巣の張った窓からのお裾分けにすぎない。”

“その部屋の中に汚物まみれの子どもが坐っている。男の子とも女の子とも見分けがつかない。年は六つぐらいに見えるが、実際にはもうすぐ十になる。その子は精薄児だ。”

“その子はもとからずっとこの物置に住んでいたわけではなく、日光と母親の声を思いだすことができるので、ときどきこう訴えかける。「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」彼らは決してそれに答えない。その子も前にはよく夜中に助けをもとめて叫んだり、しょっちゅう泣いたりしたものだが、いまでは、「えーはあ、えーはあ」といった鼻声を出すだけで、だんだん口もきかなくなっている。その子は脚のふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。食べ物は一日に鉢半分のトウモロコシ粉と獣脂だけである。その子はすっ裸だ。”

“その子がそこにいなければならないことは、みんなが知っている。そのわけを理解している者、いない者、それはまちまちだが、とにかく、彼らの幸福、この都の美しさ、彼らの友情の優しさ、彼らの子どもたちの健康、学者たちの知恵、職人たちの技術、そして豊作と温和な気候までが、すべてこの一人の子どものおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。

..........そして、この幸福に満たされた完璧な理想郷から、時々歩み去る人たちがいる。”

 

 

この話をきくと、やはり誰しも「酷い話だ」「かわいそうだ」と思う。しかし、もう少し考えてみる。これは自分たちのことでもあるのではないか?

何不自由なく、家があって、教育を受けて、戦争もない飢えもない、奴隷制度もないこの国は、オメラスそのものではないか。

 

 

 

自分たちの豊かな生活は、沢山の犠牲の上に成り立っている。そして、オメラスの人々がそうであったように、我々もそのことを知っている。では我々は、オメラスから歩み去る人々」のように、この全ての便利さと豊かさを打ち捨てることが出来るだろうか。

間違いなくできないと思う。

 

 

そして、オメラスから去ったところで、地下牢の子供が助かるわけではないのだ。