襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

ハヤシライスが苦手(カレーの道徳)

 

 

僕には嫌いな食べ物がありません。と公言してから6年の歳月が過ぎた。

僕はそれなりに色々なことを経験して、自分の可能性を発見したり、あるいは自分に出来ないことを認識したりしながら年相応に年を取った。

 

僕には嫌いな食べ物がない。

だからレストランに行っても人の家にお邪魔しても「えーちょっと勘弁して下さいよこればっかりは食べられませんよ。」っていうものがない。食わず嫌いがないわけだから褒められることも多かった。そりゃ、人を家に招いて、その人が何でも食べる人だったら作る側としてはこんなに気楽なことはないだろう。

 

 

一方で「嫌いな物がないなんて味気ないやつだな」というマイノリティーの考え方も存在する。人の好き・嫌いは相対的なものだから、嫌いな物がないなら好きな物だってそんなにこだわりがないんでしょ、というわけである。

偏屈な考え方にも見えるけれど、いざこの考えを突きつけられると僕自身挨拶に困る。「うーんそうかもしれないなぁ」と妙に納得してしまうのである。

 

 

これは「好き嫌いがはっきりしている人はそのジャンルにおいてこだわりを持っている」「あるジャンルにおいて嫌いなものがない人はそもそもそのジャンルに興味が薄い」という一つのテーゼである。

 

 

「JPOPなんて最低だ。あんな消費前提の流行音楽なんて聴いてるだけで耳が悪くなるぜ!」と豪語する人がクラッシックを心から愛していたりすると「音楽が好きなんだな」と感心する。逆に「特に嫌いな音楽はないから何でも聴きますよ」と言う人はレゲエもハウスもヒップホップも大して知らなかったりする。「何でも聴きますよ」といって本当にあらゆるジャンルを愛している人は多分とても少数だ。

 

 

「嫌い」という感情がきちんとあるからこそ「好き」という感情が際立つ。あるいは自分の中で尊重される。そう考えると「嫌い」という感情も「好き」という感情と同じくらい大切にした方がいいのではないか?

 

 

 

 

ところで、少し脱線して屁理屈を話すと、僕には「嫌いな食べ物」はなくとも「好きではない食べ物」はある。食べると「嫌な気持ちになる」食べ物は存在しないが、「食べても特に心躍らない」食べ物はあるのである。

 

 

 

ハヤシライス。

僕はハヤシライスが好きではない。嫌いなわけではないからそこに「なぜなら」は存在しない。ハヤシライスが出てくると僕はそれに対して感想を言うでもなくハヤシライスを平らげる。そしてふと「カレーが良かったな...」と思うのである。カメラで例えるならライカX2から妥協してD-LUX6を買ったときの気持ちと似ているかもしれない。

 

全てのハヤシライス屋さん(そういう店があればだが)を敵にまわす発言をするけれど、ハヤシライスはカレーライスの下位互換だという選民意識が僕の中に根付いているのは確かである。カレーライスを妥協した食べ物。サラサラしたカレー。カレーライスからちょっと浮気した人が浮ついたままに食べるもの。

ハヤシライスを食べるとあたかも自分が「カレーライスを食べ損ねた人」のような気持ちになる。ハヤシライス派の皆さんはごめんね。

 

 

イタリアから日本に帰ってきて、最初に食べたのが成田空港のレストランのハヤシライスだった。最初はカレーだと思っていたが食べてみたらハヤシライスだった。自分で頼んだくせに新種の詐欺にあったような気持ちになった。

 

 

 

とはいえ、ハヤシライスが出てきて僕は文句を言ったことは一度もない。黙々と食べて、食べ終わって、カレーの素晴らしさやカレーの尊さ、カレーの道徳について思いを巡らすのである。好きの反対は無関心という言葉があるけれど、感覚はこれに近い。

 

トマトが嫌いで嫌いで仕方がない人はある一定量いるけれど、もしこの世からトマト

が跡形もなく消滅したとしたらその人たちは狂気するはずである。「トマトがなくなった!やった!」と。でも僕は別にハヤシライスが消滅したところで何の感想も持たない。ハヤシライスごときに僕の感情は左右されないのである。

 

 僕はハヤシライスが嫌いなのかもしれない。