襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

蟹と呼ばれた車掌の話

 
 
あるところに蟹と呼ばれる車掌がいた。
 
これは蟹の上司から付けられたあだ名で、同僚も上司も彼をこう呼んだ。あるいは呼んだという表現は正しくないかもしれない。誰も蟹に対して直接蟹と呼ぶわけではないからだ。愛称というよりはむしろ恐れを以ってそう呼ばれているところが大きいようだった。
 
蟹は県内では有名な理系大学を出ており、卒業後改札窓口などの現場業務を経て車掌になった。
電車の発着時間が1分単位で決められているようなこの業界の中において蟹は「仕事の精密さ」で知られていた。それは異常なことだと言えた。
 
蟹は礼儀正しく、適度に社交的な人間だったが思い切って仲良くなろうとするものは男でも女でもいなかった。みんな蟹が怖かったのだと思う。
 
 
 
 
 
 
蟹は乗客を足の生えた荷物くらいにしか考えていないようだった。そうとしか思えない仕事の仕方を蟹は首尾一貫してやってきた。蟹は常に冷静で判断力があった為、何度本社から厳重注意を受けても蟹はクビにならなかったしペナルティーすらなかった。蟹を恐れる一方で蟹を失うわけにはいかなかったのだ。
 
 
 
 
 
蟹は駆け込み乗車を心から憎んだ。いい年をした大人が必死の形相で走るのを見せられるのも不愉快だったし、駆け込み乗車客のことを計算にいれるとどうしても発着時間にズレが生じるからだった。
 
蟹は駆け込み乗車をする客を見かけると、明らかに意図的なタイミングでドアを閉め、容赦なく乗客を挟むということをしていた。それは頭だったり腕だったり胴だったり様々だったが、ドアはかなりスピードを出して閉じるタイプだったので乗客はさぞ痛かっただろう。
蟹のドアの開閉コントロールは完璧で、閉まる時間はルールを守り、無理やり入ろうとする無茶な客は必ずタイミングを合わせて挟んだ。挟んだあとまるで晒し首みたいに少しだけ挟んだままにしておくところがさらに良くなかった。わざと乗客を攻撃していることは誰から見ても明らかだった。
 
 
駅長がその異常な蟹の素行に気づいたのは蟹が車掌に就いてから一ヶ月してからだった。前から駆け込み乗車をして挟まれたという苦情の客は一定の割合でいたが、蟹が車掌になってからその量が3倍に増えたからだ。
 
 
駅長は蟹を呼び出し、かなり強めに注意したが蟹は少し困ったような顔をして「わざとではないのですが…すみません以後気をつけます。」といって微笑んだ。
 
 
しかし駅員は心の底から蟹を疎んで注意をしたわけではなかった。口が裂けても誰にも言えない本心では、窓口にくる狂ったような駆け込み乗車の常連客が「ドアに顔を挟まれたのよ?!本当に怖い思いしたんだから!責任者出しなさいよ!」と怒鳴ってくるときにほんのすこしだけ「お前が駆け込み乗車なんてするからだろ。」という気持ちがあったのだ。
 
みんな本当の本当は蟹の餌食になる乗客を見て少し笑っていたのかもしれない。心の鬱憤も少しは晴れたものもいたかもしれなかった。
 
1年後、その路線の駆け込み乗車は十分の一にまで減った。実際には同じ路線で車掌は沢山いるので、駆け込み乗車客が必ず挟まれるわけではなかったが、それでも客は挟まれたくなかったし、挟まれた姿を晒されるのはもっと嫌だったのだ。
 
 
 
 
 
 
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