襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

キンモクセイ~Prezoea~

 

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佐藤匠は大事を取って学校を早退した。10月のはじめのことだ。

長いこと病院で昏睡状態だった祖父が意識を取り戻したという電話が母から学校に届いたのだ。ガチャガチャと黒いランドセルを鳴らして匠は駅への道を走った。早く病院へ行かなくちゃ!父と母と、それから祖父が病院で待っている。

祖父は匠が幼稚園に入った頃から体が急激に衰弱し、今では点滴なしでは生きていくことが出来ない。匠が小学校に入学する頃に絶え絶えだった意識も完全に途絶え、祖父は植物人間となった。

 

 

それから2年が経ち、すなわち匠が小学2年生の今祖父の意識が奇跡的に回復したという。それでも祖父は衰弱しきっていて、またいつ昏睡してしまうかわからない。なるべく早く来なさい、と母が言っていたと先生が急かすように言った。匠は精一杯走った。

 

 

 

病院へは電車を乗り継いで1時間弱のところにある。一回乗り換えなくちゃならない道のりだったが、匠は物心ついた頃から電車が大好きで、一番好きな本は時刻表だったくらいだから父も母もそこは一切心配していなかったのだ。

 

今なら14時05分発の特急八王子行きがあるから14時33分に菊名につく。これなら45分あれば病院に行ける筈だ。匠は頭の中で時刻表を思い出しながら経路と時間を計算した。まさかこんなときに電車の知識が役に立つとは思わなかった。

匠が思った通りの時刻に電車がホームにやって来て、匠は車両に乗り込む。車掌のアナウンスが聞こえて、発車のベルが鳴る。

 

ところが、改札の方からサラリーマン風の男性がこちらに駆け寄ってくる。駆け込み乗車か...危ないなぁ。と匠は呆れた。男性が車両に入るより前に電車のホームが閉じる—とその時、なんと男性は自らのバックを投げ出すように扉の突き出し、ドアが閉じるのをギリギリで止めた。「無理なご乗車はおやめください!下がって下さい!」という車掌の怒った声が聞こえてくる。周りの乗客がざわめく。急いでるのに!匠は怒りと焦りで頭がくらくらした。サラリーマンは顔を真っ赤にして挟まれた鞄を引っ張りながら電車の扉を拳で叩いている。「ふざけるな!乗せろオラァ!」

それから扉が開く。男性は扉を叩いた勢いのまま前のめりに倒れ、顔を強く打った。

匠はざまあみろ、と思ったが、男性は鼻血を出したまま気絶しており、電車は人身事故扱い、車両はそのホームで15分の遅れとなった。

電車はそれから無事動き出したが、乗り換えが上手くいかず結局匠が病院についたのは予想より40分も後だった。

 

 

 

「匠....遅かったね..」母が今まで聞いたこともないような、絞り出すような声で言った。

母は顔を覆ったまま大声をあげて泣いた。父も祖父の手を握って「親父....匠が来たぞ...!ランドセル姿見ないと死ねないんだろ?!」と懸命に話しかけている。

祖父は、匠が着くほんの少し前に死んだ。

祖父は死ぬ直前まで「匠はどうした」と言っていたらしい。それで、父と母は「今学校に連絡つきましたから!匠は電車に詳しいから、そんなにかからずに来れますから!気をたしかに!」と励ましていたらしい。全部、匠が大人になってから聞いたことだ。

 

それからのことを匠はあまり覚えていない。もちろん葬式にも参列したが、人の死を受け止めるには匠はまだ若すぎた。匠はまだランドセルが綺麗な小学2年生だったのだ。

匠は自分を責めた。どうしようもないと分っていても、どうしてあれだけ電車が好きな自分が、電車の遅延で祖父の死に立ち会えなかったのかということばかりを考えていた。それから匠は中学に上がり、高校に上がった。祖父の死を匠は乗り越えつつあったが、あの日のことを忘れることはなかった。

 

ある日、匠が母に「お母さん。僕は電車の車掌になるよ。」と突然告げると、母は少し驚いた顔をしてから「あんた、昔っから電車好きだったもんね」といって少し笑った。

 

その母は匠が車掌になった年に癌で死んだ。

母の危篤の電話を受けた匠はその日駅の窓口勤務だったが、すぐに代理を頼んで駅を飛び出した。

「おい!佐藤!ここから特急に乗るのが一番早いだろうが!」と慌てて怒鳴る駅長を助役がとどめる。「あいつは自分の運転する車両以外は信用しないんですよ。入ったときから、あいつはそうなんです。」二人にはその訳を知る由もない。

特急と各駅を乗り継いで病院に行くには35分。車で行くなら50分。それでも匠はタクシーに飛び乗って病院にたどり着き、無事母の死を見届けることが出来た。

 

 

 

蟹と呼ばれる車掌の噂が立ち始めたのもこの頃だった。この路線には蟹と呼ばれる車掌が勤務していて、彼の運転する電車に駆け込もうとすると容赦なく体や足を挟まれる。それで軽い怪我をする乗客もいるという。

 

 

匠は自分が蟹と呼ばれていることに気付いていた。それでも匠の業務は変わらない。匠の目的は乗客を挟むことではなく、正確に車両を動かすことにあった。駆け寄ってくる乗客は匠にとって邪魔者でしかなく、匠が守るべきなのはホームの客ではなく車両に乗って目的地を目指す乗客たちだったのだ。

匠が車掌になって3年が経っていたが、匠が電車を遅らせたことは一度もなく、車両は秒単位の正確さで絶対にホームに着いた。

 

 


蟹と呼ばれた車掌の話 - 襟を立てた少年

 

 

 

 


蟹の娘 - 襟を立てた少年

 

 

 

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