襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

付き合うことについて僕の思うところ

 
大学生のころ、よく後輩の女の子が「先輩、付き合うってどういうことですか」みたいなことを質問しにきた。僕は当時からよく考え込むというか、こういう明確な答えのないものに関してぐるぐる考える性の人間だったので、後輩としては面白がって訊いてきただけかもしれない。
僕はそういうときいつも、「約束するってことだよ」と答えていた。それはやけに覚えている。
 
結婚と恋愛は異なる。異なるけれど全く違うものでもないと思う。恋愛が結婚に昇華することも多いわけだし。やっぱり違いは法的に契約があるかどうか。だから恋愛は結婚とは違って口約束なんだよ。でも一応約束だからさ、内容はそれぞれかもしれないけど誠実にいこーよっていうのが僕なりの持論だった。とおもう。
今も考えはけっこう似かよっているけれど、振り返ってみるとやっぱりちょっと理想が入っているというか、綺麗すぎることをうそぶいていたかもしれない。付き合うということをひとくくりにして語ること自体がおこがましかったのかもしれない。
 
 
今付き合うっていうのがどういうことなのか、改めて発言する自信が僕にはない。様々な体験がまた僕の中に入ってきて、新しい形をつくろうとしている最中なのかもしれない。今ぼんやり考えているのは、付き合うっていうのは愛っていうより恋だなーとかその程度だけど。
 
恋は平面的で愛は立体的っていう言葉をきいたことがある。
要するに恋は相手の好きなところだけにのぼせている状態ってことで、愛は相手の様々な面-いやな面もつまらない面も理解できない面も-良しとして受け入れることなのかなとおもう。
 
それから恋は求めることで愛は与えるものっていう言葉もあった。言われてみればなるほどなっておもうんだけど、ちゃんと自分の意見として咀嚼出来ているのかっていうと微妙なところだ。
 
 
先日「心の処方せん」という本のなかで「のぼせあがってそこから下っていくことで初めて関係が深まる」っていう言及があって、これは少し刺さった。
 
相手に恋をし続けていると要するにそれは平面的な視点であり、実際の相手と自分の理想が少しずつずれて離れていってしまう。のぼせるということはそういうことなんだとおもう。年数がたって、俗的には倦怠期というやつが淡々とやってきたときに脳内麻薬がきれて、急に相手の嫌なところや理解できないところが浮き彫りになる。それは当然相手が変わってしまったのではなく、それから相手は本当は価値の低い人間だったわけでもなく、自分の勝手に作り出した理想像が崩壊しただけのことなのだとおもう。
 
それを乗り越えたひとにだけ、相手を立体的に見る機会がおとずれる。
立体的に見た相手がそれでも魅力的に見えたのなら、それは愛なのだなとこのところおもうようになった。
 
 
 
結婚という概念は人間にしかないけれど、恋とか愛とかは動物の世界にもあるのだろう。だから、結婚できそうもないから恋愛しないとか、あくまで恋愛してる最中に結婚のことを押し付けるというのは問題なんだとおもう。考えすぎだろうか?