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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

自殺はいけない

 

こないだ友人が「もう生きたくない」みたいなことを言ってきて、「死んじゃだめだよ」って返したのよね。やっぱり自分で命を断つのはまずいよね。読んでないはずだけどその人に書くつもりで書くよ。

 

 

 

 

色んな価値観があるね。個人だから好きなことすればいいと思うよ。アドラー心理学的には「個人に実質的な害を与えない限り自己責任の範疇で自由にして良い」みたいな。一日三回礼拝するのも金目当てで結婚するのも河川敷に住むのも自由でしょ。人に迷惑かけてるわけじゃないんだし。

 

 

 

自殺ってその平行としてありそうな感じがするのかもしれない。自分の命なんだし、本当にいやなんだからいつ辞めたっていいでしょ!みたいなね。

 

意外かもしれないけど、「親や友人が悲しむから死ぬなんて勝手だめ」っていう話は今日はしないんだ。親に散々な目にあって自殺したい人も、友人から思わぬ裏切りを受けて自殺したい人だっているからさ。説得力にかけるとはいわないけど、死にたい人って、われわれからしたら相当追いやられてるし、親友人が悲しむなんてわかりきってるじゃん。それをわかった上で死にたいんだと思うんだけど。だから。

 

 

 

 

人間って二つの意味で生きてるって思う。

魂とか心とか、人の心の中で生きてるみたいなのはなしね、もっと現実的な意味で。

 

 

 

動物的な生存と植物的な生存の話なんだけど、

伝わるかわかんないけど書いてみるね。

 

 

 

植物的な生存っていうのは、無意識的に行われている生存活動のこと。血液が運ばれたり、心臓が動いたり、髪の毛が伸びたり。こういう書き方するとすごい植物っぽくない?人間って。「死にたーい」つってても肉体は生きるために血液を運んで、細胞を更新してるんだよね。だからうつ病とかやばいなって思うよ。ご飯食べられなくなったり体温が極度に落ちたりして、体が積極的に生きようとしなくなってくるわけだから、やっぱり心の病って片付けるのは違うと思う。

 

 

動物的な生存っていうのは、意識的な活動のことなんだけど、ご飯を食べたりとか笑ったりとか喋ったりとか誰かを抱きしめたりとか。『グレートギャツビー』では「人間の性格を日々の絶え間ないジェスチャーの連続とするならば」って言い方したんだけど、それも生きてるならではだよね。

 

 

自殺っていうのはもちろん、「今から血流を止めたいとおもいます!」って止めるわけじゃなくて、ナイフ使うのか海行くのかガスまくのかわからないけど、動物的な行動によって起こすわけでしょ。

それは、なんというか植物的な「自分」としてはびっくりドンキーな出来事でさ、たまったもんじゃないと思うの。手首切って血が出ると思うんだけど、切り口の細胞が必死になって血を固めようとしたり、意識レベルを下げて血圧を下げようとしたり、死のうとした本人の意思とは裏腹にそういうことを必死にしようとするんだよね。生きようとして。そういうのってすごく寂しいというか、納得いかないんだ。

 

 

本人は生きたいとか死にたいとかいうし、その気持ちもきっと本当のことなんだと思うんだけど、その動物的な意思とは無関係に、その間も植物的な意思は生きるために全力で活動を続けてるんだよね。

 

 

自殺って要は他殺となんら変わらないって思ってる。人殺しだと思うよ。繰り返しになるけど周りが悲しむとかそういうの抜きにね。自分の胸に手当ててみろよ、心臓が動いてるだろ?それを勝手に止める権利って本当にあるの?

って思ってる。変な考え方だよな。僕も書きながら「こりゃわかりづれえや!」って思っちゃった。(笑)

 

 

でもなんか「生きてりゃ良いことあるって」とか、響かないんじゃないかって思って。だってないかもしれないじゃん。少なくとも自殺したい人は「ねーわ」って思ってたりするわけで。だから自分なりに、もっと違う方向から喋ってみたかったんだけど。また会いましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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