読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

仕事でも何でも遊ぶ感覚で臨む



仕事場には遊びに行くつもりで臨んでいる。と書くと語弊がはんぱじゃないのでこのあとあれこれ説明して行かなければならない。

仕事を仕事(生きるために受けなければならない苦痛)として捉えるとしたら、僕だったら耐えられないなと思う。一日のうち8時間以上の苦痛が毎週5日間コンスタントにやっていたら、僕だったら心が壊れてしまう。確かに聖書ではアダムの罪によってそのあらゆる子孫(つまり我々は)「一生労働の苦しみを受ける」ことになっているが、いつの時代でも兵士の中には「手柄を取るぞ俺の力を見せてやる」と活き活きしている者と「こんな野蛮なところにいたくないな。命が惜しい」とげんなりしている者がいたはずだし、農民の中には「今年もこんなに豊作で、お天道様のおかげだな。ありがたい」と感謝する者と「必死に収穫しては搾取されて、こんな繰り返しつらすぎる」と呪う者があったのではないか。


僕は何でも身の回りのことは「遊び」だと思って接してきたし、これからもそうしていくと思う。この場合の遊びとはつまり、”決められたルールの中で努力と工夫によって目的を目指し、その過程を楽しむこと”を指す。以上はあくまで僕の定義だけれど。




「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ 動がるれ」

という歌は後白河法皇が編纂した「梁塵秘沙」に収録されている”今様”だ。
「今様」っていうのは要するに歌謡曲のことで、この場合遊女が歌ったりしていたそうだけど、今で言うなら後白河法皇がトリビュートした「梁塵秘沙」っていうアルバムってことだな。

この歌は「遊ぶために生まれてきたのだろうか。子どもたちの遊ぶ声を聞いていると私の体も自然と動いてしまうようだ」という意味だけど、恐ろしいのは最初の部分に主語がないことで、ここに何を当てはめるかで意味がちょっと変わってくる。
遊女であれば物悲しい歌だと思う。遊ぶ(客人との夜の営みを含めて)ことを運命づけられて逃れられない遊女がふと子供の遊んでいる声を聞いて、羨ましく思うみたいじゃないですか。

脱線してしまった。
僕は「遊ぶために生まれてきた」と言い切るくらいの結論を持ってはいないけれど、この歌はなんとなく心に焼き付いていて、「どうせなら何でも楽しんでやらなければ面白くないし、意味がないんじゃないか。何より楽しまないと損だ」と思うようになってしまっている。


到底遊びとは言えないことも、自分なりに目標を設定してそこに向けて努力・計画・工夫していくことで遊びに変えてしまう。そうしていくことでルーティンワークも工夫される対象になって遊びが効いてくる。それが結果として仕事でも効率アップに繋がるのではないか。遊びの時間ってすぐ終わってしまうじゃないですか。それと同じだね。


仕事いってきます〜