襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

僕が泳いだ日のはなし

 

 

8時退社。

両国で降りる。3月だというのにまだまだ外は寒い。

 

腹が減っては戦はできぬ。何か入れないと泳ぎ切れないことを僕は体験的に知っている。

両国市民プール手前にあるコンビニでゼリー飲料を買う。「袋にお入れしますか?」と聞かれたので「お願いします。」と答える。怪訝そうな顔の店員。

10秒チャージといううたい文句の商品を袋に入れてほしい僕のほうがおかしいのかもしれない。でも僕の目的はむしろ袋のほうにあって、朝ゴーグルや水着を鞄に突っ込んできたので濡れた時に仕舞う袋がなかったのだ。

 

両国屋内プールの入り口に入る。本日で3回目。三日坊主。

2,3度まばたきをすれば忘れてしまいそうな柄のネクタイをお召しのサラリーマンをかわして券売機でチケットを購入して更衣室に入る。平日でもこの時間のプールは会社員でにぎわう。

更衣室で水着に着替える。ほかにもちらほら大人たちがのそのそと着替えている。足元のビジネスバッグに視線を落とすと滑稽な気分になる。だってここにいるみんな鞄の中にゴーグルや水着を忍ばせて会社で働いていたのだ。僕とお揃いだ。

 

余談だが僕は更衣室で裸になるとき、かなり気持ち悪い顔をするように心がけている。強いて例えるならガソリンを顔面にかけられた人のような苦悶の表情に近い。

これは、男性更衣室に万が一ホモセクシャルの痴漢が現れた際に身を守るための対策である。僕はけっこうあどけない顔をしているので、気持ち悪い顔をし続けることで「僕はおいしくないよ」と警告しているのである。これを生物学の専門用語で「ベイツ型擬態」と呼ぶ。

 

 

プールサイドへの通路前で熱いシャワーを浴びる。

小学生の水泳の授業といえばニワトリの殺菌消毒みたいに全員集められて冷水をぶっかけられていた―ことを思うと良いゴミブンになったなぁとしみじみ思う。

そしていよいよプールサイドに出る。

けっこうな人が泳いでいて、特に仕切られた「自由コース」は譲り合って泳いでいる状態みたいだった。ちなみにその隣は「一方通行コース」といううまい人用のコースで、このふたつが隣り合って「自由の反対は不自由ではない」という哲学的なテーゼの始まりを予感させた。

そうしてプールの有象無象の情勢を観察しながら体操をする。おぼれたらダサい。

 

 

するとプールから一人、肩幅のある色黒の男が出てきて、ゴーグルを外しながらこちらにまっすぐ歩いてきた。

「お前、このごろよく泳いでいるな。対して泳げもしないくせに、邪魔してくれるなよ。お前みたいに貧弱なやつはおとなしく家にこもってオジロマコトの漫画でも読んでな」と馬鹿にした口調で言った。僕は彼をまっすぐ見返して「あなたこそ、ラグビー部だというのに熱心にこんなところで泳いでいていいんですか?」と言い返すと「な、なぜ俺がラグビー部だとわかった?」と動揺した。

「瞼の上のあざの付き方と膝のサポーター跡を見れば誰でもわかりますよ。簡単な推理ですよ。毎日泳いでいるということは故障ですか?お大事に。それからオジロマコトの漫画はもう最終巻です。」と一気にまくしたてて僕はその場を去った。

 

そんな妄想を繰り広げながら体操を終え、いよいよプールに入水する。

両国屋内プールは温水なので、ちっとも寒くなくて快適なのだ。

僕は最後の深呼吸をすると平泳ぎで前に向かって真っすぐ泳ぎだした。

 

 

つづく

 

 

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