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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

メルカリで感じた「もの」との接し方

 

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最近「メルカリ」というアプリがマイブームだ。

要するにお気軽に「ヤフオク」ができるスマホアプリなんだけど、フリーマーケット感覚で出品者が手数料入会費なしで出品して、利用者が手数料入会費なしで自由にそれを購入できる、しかもフリマだから値下げ交渉なども自由自在というわけだ。

いらないものがあればスマホのカメラでそれを撮影して、アプリ内の写真加工ツールで綺麗にして5分で出品、という気軽さが人気の秘訣らしい。

 

とはいってもこの記事はメルカリのステマではない。単純にメルカリを面白がっている僕個人についてつらつら書いて、自己満足のうちに作文を終えようという魂胆だ。こんなんで3年ブログやってきました....。

 

メルカリは見てるだけで面白い。

 

暇さえあればメルカリを見ている。別に何を購入するわけでも色々出品しているわけでもない。(出品したのは最初の一度きり)ただ見ているだけでメルカリは面白い。

 

人は実に様々なものを買い、

そして手放していくものだとつくづく思う。

 

 

中古のサンダル(誰が買うんだ...)や、メーカー不明のママチャリ(どうやって郵送するんだろう?と思ったら取りに来いと書いてあった。北海道だった。)や、ヘッドフォン(中古だとなかなか売れない。)、謎のアクセサリー、中古のきわどい水着(エロ目的としか思えない)などなど...。ずっと見ていると人間本当に必要な物っていくつもないんじゃないかという気持ちになってくる。

 

江國香織さんの「神様のボート」の一節で

「何かを所有する度に、人はひとつずつ地上に縛り付けられる」

 

という言葉がある。細かいことを言うと「人はひとつずつ」という韻を踏んだ優しい言葉の並びのあとに「縛り付けられる」という厳しく痛みを伴った言葉が淡々と続くのが江國香織らしくて素晴らしい。さらに言えば、「地上に縛り付けられる」という言葉は、「所有することをやめたら人は地上から解き放たれる」ことの逆説とも取ることができてそこに要はこの一節の"希望"がある。とにかく、僕はこの言葉が好きだ。

 

「神様のボート」と「メルカリ」はいわば対極構造にある。人が所有しているものの総計は変わらず、「誰が所有しているか」だけがせわしなく交代していく。スナフキンはパイプとハーモニカと帽子だけを携えてそれを不思議そうに眺めていることだろう。

 

 

僕は何を所有しているだろう?

 

とっさに顔をあげると目の前にPCがある。ブログを書いているのだから当たり前だ。PCは生きていくのに必要だろうか?いや、必要ではないだろう。別に僕はキーボードを打たないからといって酸欠になったりはしない。ただ、あまりにもインターネットというものが僕の生活と密接になっているせいで、結局のところ「必需品」と言わざるをえない。さらに見渡すと会社に入るための社員証が目に入る。社員証は必要だ。これがないと会社に入れないし、会社に入れないと仕事ができない。

ノートと万年筆がある。どちらも無くても死なないけれど、ノートは僕の第二の脳であり、これがないとやらなければならないこと・忘れてはならないことが全て吹っ飛ぶのでやはり必要不可欠だ。作家ブルース=チャットウィン曰く「パスポートをなくすことは大した問題ではない。しかしノートブックをなくすことがあったら破滅だ」である。

 

万年筆は多くの人にとって必要なものではないが、僕の場合これは父が成人式の折に贈ってくれたものなので「必要か」以前にいわば自分を構成する要素として外すことのできない持ち物、という言い方ができる。こういう持ち物のあり方がある。

 

"自分が納得して持っている"少ない持ち物に囲まれて生きていけたら、それが今の所僕の思うベストなのだけれど。

 

 

おしまい