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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

「歴史かるた」なるものが売っていて憤った話

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今日は百円ショップへ行った。ノイズキャンセルヘッドフォンの電池が切れて、ただのヘッドフォンになってしまった為電池を新しく買い直しにきたのだ。ノイズキャンセルって一度知ったらもう他には戻れない恐ろしいジャンルだよね。

 

百円ショップのおもちゃコーナーに「歴史かるた」なるものがあった。

読むほうに史実の概要が書いてあり(フランシスコザビエルが来日しキリスト教を布教した)、取る方にその年号が書いてある()のである。

 

なんだこれは

 

こういうのは、けしからん!きらいだ!

 

そうだ、今日はこれをブログに書こう!

 

 

と思って今こうして文章を書いている。

 

 

 

 

年号と歴史的事象を紐づけて暗記させる現代の受験前提の歴史学習に疑問を呈するようなそもそもの議論はさておき、いや、さて置くような話でもないんだけれど、別にザビエルが何年に来たかなんてどうでもよくないですか?

問題は、その時代に死ぬかもしれない危険を冒してまで、どんな野蛮な国かもわからない日本にわざわざ布教活動をする必要があったのか、その政治的理由や時代的背景が重要なのであって、ザビエルが来日した年が3年くらい前後したところで、問題ではない。というか、それ以上に大切なことはいくらでもあるのでは。

 

1982年、本能寺の変。24歳になって織田信長が死んだ年なんて聞かれない。こんなことは社会に出ても何の役にも立たぬ。ただお受験があったから必死になって暗記しただけだ。「イチゴパンツの本能寺」。焼ける寺の中でイチゴパンツで慌てる信長の絵が参考書に乗っていた。信長が死んだのが1982年だということは知っていても、僕はポピュリズム反グローバリズムも知らない馬鹿な社会人だ。つまりは年号を覚えることと知性を養うこととは何の関係もない。と僕は結論付けた。

 

冒頭に戻る。「歴史かるた」とは!

 

別の機会に見た「ことわざかるた」は理解できる。これは勉強になって非常によろしいと思われる。「石の上にも」と読まれたら「三年」!と答えるのである。

例えば孫とその両親の帰省を楽しみに待つ老人がこれを買って、親族で楽しみながら「ことわざかるた」をやればいいのである。祖父だろうが父親だろうが息子だろうが、「石の上にも」のあとの言葉を探し当てるゲームであれば取れるチャンスは平等。勉強にもなるし盛り上がると思う。

 

 

ところが年号かるたはどうだ。年号かるたは年号を暗記していなければ取れぬ。それに大抵の大人は御成敗式目が制定された年も、大化の改新が起こった年も、大塩平八郎の乱がおこった年も覚えていないであろう。

覚えていないくせに老人が「これなら孫の勉強にもなるし、遊び感覚で参加できだろう」と言って購入するのであろう。はっきり言って超迷惑。年号かるたに参加を許されるのは年号を暗記した人間だけだ。そして年号を暗記した人間はそもそもこのかるたに参加する必要がないという...。

 

年号と歴史的事象を機械的に暗記することが勉強、というのをよしとする短絡的な教育構造を意識的看過したようなこのゲーム、が100円ショップにあるのを見て、僕は上記のようないきさつもあって大変に腹を立てたのである。

 

大人たちが「さあ勉強しろ」と、機械的な暗記を強要すれば歴史なんて誰も好きじゃなくなるのは必定なのである。前半でも少し触れたとおり、どうしてそんなことが起きたのか、そのとき時代背景にどんなものがあったのか。過去を顧みて、同じ過ちを犯さぬよう先人に学ぶ。それが歴史という学問の本来あるべき姿なのではないか。

僕は納得しないまま100円ショップを後にしたのだった。

あの気の抜けたゲームが全然売れないことを切に祈るばかりだ。

 

 

おしまい