襟を立てた少年

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日本語が堪能な外国人は普段 何語で考えごとをするのか

 

日本語が堪能な外国人は普段 何語で考え事をするのか

 

僕は仕事中にこんなことを思いついてしまった。

 

「人は言語を通じて世界を見ている。だとすれば、言語を複数持つ人は思考ベースを複数持つということになり得るのか?それとも彼らに取って言語はチャンネルのようなもので、その時々に応じて切り替えているだけなのか?」という仮説だった。

 

 

例えば僕の親しい同僚でイタリア人がいるのだけれど、日本に5年以上住んでいて日本語は何不自由なく使えるし、おまけにイタリア語と英語とスペイン語を自由に操っている。そんな彼は普段何語で思考しているのか。

イタリア人だからイタリア語で思考する。のか?

そんな短絡的に考えていいのだろうか。

 

彼は日本に住んでいる。

だから基本的に思考も言語も日本語に引っ張られるのが自然だと思う。

 

具体的には「鈴木さんとみずほ銀行に行かなきゃ」ということを考えるとき、イタリア人の彼はわざわざ「Andrò a Suzuki-san e la Mizuho Banca」と考えるだろうか。「鈴木」「みずほ銀行」という変換的不可能な根本的な「日本語」がアンカリングして最初から日本語で考えることが決定されるのではないか。

 

じゃあイタリア人の彼が日本人の僕と会話しています。そしてスペインの素晴らしさについて語るときは、何語で考えながら僕と会話しているのだろうか。

 

 

 

 

この仮説について深く考える為に僕は会社の日本語検定1級レベルの語学力を持つ外国人スタッフ10人にアンケートを取ることで研究を深めることにした。(仕事しろよ)

 

その前に堪能な英語を話す日本人2人と食事をしたときに「日本語が堪能な外国人って普段何語で物事を捉えて考えるんだろうね」と訊いてみたら「あーたしかにそれはわからないですね」という答えが帰ってきた。「英語が堪能な君たちは普段英語発で考えごとをすることはあるのかい」と訊くと「留学時代ならともかく、今はないですね」と言った。留学時代は起こり得るらしい。やっぱり環境が言語の選択に深く関わるのかもしれないと僕は思った。

 

 

それから僕は中国人にそのことを訊いてみた。

後からわかったのだが彼はなんと大学時代言語学専攻だったのだ!

 

言われた回答を要約すると「言語はあなたが思っているよりずっとリキッドで捉えどころのない、イメージのもので、平時は脳の中で混沌的に渦巻いている。

 

何か言葉を発する前に考えるとき、それはまだ言語ではなく、単なるイメージとして組み立てられている。言語化するのはそのあとの話なので、思考する段階では何語でもないです、とのこと。

 

強いて言えばそれがごちゃまぜの言語であり、

日本語と広東語と英語がまぜこぜになった混沌で思考するらしい。

 

 

 

そのあとアルゼンチン人の同僚に同じ質問をしたら

「例えば今はアンディさんと日本語で話しています。なのでそのあとはしばらく日本語であれこれ考えます。ポルトガル人と話したあとはしばらくポルトガル語で考えます。」という答えが返ってきた。

つまりその時々に応じて関わった人との会話言語が

のちの関係ない考え事にも影響を及ぼすというのだ。

 

やはり言語というのはその時々の環境に色濃く影響を受け、それ以前に言語はリキッドで曖昧としていて、捉えどころのないどろどろしたものなので、口から出る前の言語は不確定的だということがわかった。

 

僕は将来的に英語を学び、いずれは第3ヶ国語を学びたいと思っている。(あらゆる日本人が当たり前に英語を話す時代はすぐそこにあるが、だからこそ第三言語が重要になってくると僕は考えている。)

 

 

複数言語を持つことで物事を多様に捉えて考える。

そういう日を夢見て今日も勉強をしている。

 

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おしまい