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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

言語が言語になる前に

 

andy0330.hatenablog.com

 

「日本語が堪能な外国人は普段 何語で考えごとをするのか」という昨日のエントリーに対して大きな反響を戴きました。ありがとうございました。

 

 

方々で読んでくださった方が感想を書いてくれているので、それを踏まえて軽くフィードバックしたと思った次第。たかがブログでもフィードバックは大事。ソクラテスが言ったように「吟味されない人生は生きる価値がない」のだ。

 

 

 

昨日書いたことを復習すると、

 

「人は言語を通じて世界を見ている。だとすれば、言語を複数持つ人は思考ベースを複数持つということになり得るのか?それとも彼らに取って言語はチャンネルのようなもので、その時々に応じて切り替えているだけなのか?」という仮説

 

それに対して、

 

やはり言語というのはその時々の環境に色濃く影響を受け、それ以前に言語はリキッドで曖昧としていて、捉えどころのないどろどろしたものなので、口から出る前の言語は不確定的だということがわかった。

 

のだった。意識の中は言語によって秩序づけされておらず、

混沌としていて環境による影響をモロに受ける。

環境っていうのは住んでいるところもそうだし、会話している相手にしてもそうだろう。あるいは、日本語が堪能なイタリア人の同僚は一人で味噌汁を飲んだらその影響を受けて日本語で考え事をするだろうか?(笑)

 

昨日の記事で登場した言語学専攻の中国人スタッフは「諸説ありますが、夢を"その"言語でみたら、その言語を習得したレベルまでいったと考えられるそうです。」と説明していて素敵な考え方だなと思った。

 

 

例えば英語を一生懸命勉強している人が英語を話す際には

「意識」→「日本語」→「英語」というステップが必要になる。

それが英語習得者になると「意識」→「英語」とシームレスな変換ができるようになるのだ。要は日本語を端折ってるわけだ。

 

そうしているうちに人は使用する言語の影響を受けて「英語」っぽい人になっていく。つまり人が言語に影響を及ぼし、言語が人に影響を及ぼしている。それは相互的な運動なのだ。

 

 

 

混沌の段階が具体的にどうなってるかはよくわからないけど、例えば「芸能人の名前が思い出せない」ときなんかは「あれ...ほら、あれだよ」なんて口走っちゃうけれど、あれはまさにイメージだけが残っていて、言語が後手に回ってしまっているパターンだ。

 

 

何語でもないことを考えているって何だかぞっとする。

ブログの後半でもちょろっと書いたけど僕は今外国語を勉強していて、それはもちろん留学だったり海外就職みたいな具体的な目的はあるのだけれど、それ以上に「言語のチャンネル」とでもいうべき機能はとても興味深いなと考えているから。

 

日本語しか話せなければ、日本語的な考え方をするしかない。日本人が日本語を話す限り永久に発想できない(日本語では思いつきようがない)アイデアや価値観、考え方がこの世にあるとしたら僕はたまらなく悔しい。

 

 

 

 

だから僕は現時点でもある程度仕方がないと考えているけれど、日本語的に「こうだ」と決めつけずにリキッドなイメージを大切にして言語と付き合っていきたいと考えている。いや、むしろ複数言語話せないからこそ言語になる前のリキッドなイメージに目を凝らすべきなのかもしれない。

 

 

読んでくれてありがとう。

 

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