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襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

語彙が多い人ほど怒らない、は本当か?

 

 

日記を書いている人は精神が安定する

という個人的な仮説が人に説明できるくらいの背丈になったので書く次第。

 

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アメリカ人は「切ない」か

 

最近このブログでも書いている通り、人は言葉なしに世界を認識することはできない。

いや、あるいは認識は出来るかもしれないが、解釈はできない。

 

例えば「切ない」という日本語がある。

卒業式の日に桜の樹の下でみんなで写真を撮る。こんな風に集まれるのも最後なのかな...切ない。と思う。"切ない"という言葉は基本的に日本にしかない。

切ないは英訳できない。

だから英語にない限り英語圏の人は"切ない"を認識できない、と考えてみる。

(ポルトガル語では"サウダージsaudade"という言葉があってこれが近い。アメリカ人は切なくならないがポルトガル人は切なくなるのかもしれない。)

 

語彙は画素数

 

他の例を挙げてみる。

 

にんげん、年を取ると怒りっぽくなる。

ボケてるわけじゃなくても急に怒鳴ったり癇癪を起こしたりする。これは脳の機能が低下して記憶力が衰退することによって語彙(ボキャブラリー)が減ってしまい、自分の気持ちを伝えようにも気持ちが高ぶるばかりでそれを表現できず、結果としてもどかしくて怒り出す−ということらしい。

赤ん坊と変わらないようだがその通りで、赤ん坊が泣くのも語彙がないからだ。語彙がないから「ワーーーー」しか表現のしようがないのだ。

キレやすい若者。

「うざい」「きもい」「やばい」と繰り返すばかりでやたらと語彙が少ないのが特徴だ。自分の気持ちを表現する(自分に対して釈明する)言語がとても少ないので結果感情をうまく整理することができず「うぜえ!」とキレてしまう。

語彙は画素数のようなものだ。言葉を知れば知るほど画素数があがって、物事に陰影をつけて色鮮やかに表現することができるようになる。

 

言語というステップ

 

日記を書く人は日々の生活を(これを世界と呼ぶことにする)わざわざ文章で書く。

つまり言語にする。

普段人は世界で生きる上で「出来事→言語→反応」という手順を踏んで反応している。そして人は物心がついてから年を重ねて行く中で「出来事→反応」という風に言語をスキップすることができるようになる。だから冒頭のような「人は言葉なしに世界を解釈できない」という言われ方をすると「そんなことないよ」と反感を持つ。僕はその途中の部分をスキップしているだけで、本当はコンマ秒くらいそのステップを踏んでるんだよ、と言いたい。

 

SNSが発達した昨今では情報はパッケージ化され、一口サイズに切り分けられ、そしてそれらは濁流のように押し寄せる。電気信号のように。そのスピードと量があまりにすごいので僕たちはそれについてひとつずつ深く考える時間も与えられず、ただ「イイね」かそうじゃないかという2択をいつも迫られる。出来事からシームレスに反応することを強要される。そして反応のあとで「で、さっきのなんだんだろう?」と思う頃には次の情報がやってきて「イイね!」かどうかを迫られる。現代人はどんどん言語を軽視するようになるんじゃないか?と不安になる。

 

日記で文章を書くという行為は、「出来事→言語→反応」という手順を改めて踏み直すという機能を持っている。「今日は晴れだったのでこないだ買ったばかりのシャツを来て出かけることに決めた。この服はちょっと高かったけどずっと追い求めていたデザインのものだったので後悔はなかった。」という些細なことを日記に書くだけで著者は自分の出来事を言語で再解釈するようになる。

 

余談だけど村上春樹『風の歌を聴け』に登場する主人公は身の回りにあるあらゆる物事の数を数えることによって自分と世界の接点を認識していた。

当時の記録によれば、1969年8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。

 その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。

 

 

と、余談だけど。

話をもとに戻すけど、えーっとなんだっけ。そうそう。日記を書く人ね。この「出来事をわざわざ言語で知覚し直す行為」を習慣化させた人。

彼らは今度は既に起きた出来事を言葉で表現するだけでなく、これから起こる出来事も丁寧に言語というステップを踏んで反応にたどり着くようになる。言語という段差を飛ばさないようになるのだ。言語というステップを踏む人は起こった出来事の意味を考えるようになるので突発的に怒ることがないのだ。

 

 

突発的に怒らない仕組み

 具体的には「君の文章面白くないよ」と言われたとする。

なんだとっ!

やはり、むっとする。

面と向かって自分の文章を非難されたという「出来事」に対して電気信号的に「ムカつく」という反応を示しているからだ。

対して日記を書く人は世界で起こる出来事に対して言語で認識するというステップを確実に踏む習慣が(無意識に)できているので、「君の文章面白くないよ」と言われた時にまず「君の文章面白くないよ、と彼は言った。」と認識するのだ。

ここは非常に重要で、アドラー哲学でも触れられている部分なんだけど、今回のことで言えば非難してきた相手の言葉は言ってしまえば「音の連続」に過ぎない。風の「びゅう」という音や木々の「ざあ」という葉の揺れる音、それと変わりない。原理的には。ただそれがたまたま言語で、そして日本語という自分の知っている言語なので「kiminobunshouomoshirokunaiyo」はムッとくるのである。

こうやってローマ字で書くとムッとしない。

「omaehabakadebusaikuda」っていうのもムッとしない。

「お前はバカでブサイクだ」と書くとムッとする。なぜならローマ字は一度文章として認識することを能動的に行わなければならない為、即座に反応できないからだ。

言語のそういう側面を利用することでアドラー哲学では「相手の言った言葉は、相手がただそう言ったという出来事があっただけで、実のところそれは自分の本当の評価とはなんの関係もない」と説いているわけだ。

 

まとめ

 

以上のような仕組みをもって、

日記を書く人は精神が安定していると説明してみた。

 

まとめると日記を書く人の精神が安定している理由は2つあって、

ひとつは日記を書くことで語彙が増えるので言葉の画素数が上がり、感情表現が豊かになるから。

もう一つは日記を書く=世界を言語で再認識することで自分の意識が出来事からシームレスに反応に移行するのを防ぎ、間に言語を挟むことで「そういう出来事」というくくりで自分の外に置くことができるからだ。

 

とはいえ頭にくることはやっぱりあるし(笑)、当然その人の性格や生活環境といったあらゆる外的要因を無視することはできないが、少なくとも普段「おしゃべり」以外で自分が言語とどれだけ接しているのかという問題は自己表現の方法に大きく関わってくるので精神の安定の問題と切っては切れない関係にあるのは間違いないと思う。

 

まあ、なかなか日記を続けるのも難しいけどね。

襟を立てた少年が3年続いているのは褒めて欲しいな!

 

 

読んでくれてありがとう。

今日はここでおしまいっ

 

 

andy0330.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

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