襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

我々は誰しも常に「私」を演じている(劇場空間型都市の解釈)

 

 

「人は誰しも猫を被っている」

という話をなるべく穏便にしたいのだけれど、この言い方だとどうしても角が立つというか、心象を悪くされるのもアレなので「私になる」という表現を使ってみようと思う。

 

 

外に出る時。

別に、コンビニに行くでも渋谷に行くでも良いんだけど、当然服を着ると思う。

服を着て外に出る。ここまではOK?

服はその人の個性が染みついている。派手な色使いの服を着れば人の関心を惹くことが出来るし、爽やかな色の服を着ている人は自分をそういう風に見て欲しいのかもしれない。「いや、おれは服に個性なんて染みついてない、無頓着だから何も考えずに適当な服を着てるから」という人でさえ、その服を着ることで「無頓着」という印象を周囲に与えているという点においてはやはり服に個性が染みついている。

 

それと同じだ。

えーっと何が同じかと言うと、「私になる」というのが、意味的に同じってこと。

職場での私(明るくて冗談が好きな私)家族といる私(穏やかな長男の私)友人といるときの私(積極的で口が悪い私)そのどれもがれっきとした「私」であり、 これが本物!みたいな人格があるわけでもない。

 

我々は「私」という属性を纏って生活している。

さながら洋服のように。

 

そして我々はTPO(時と場合)に応じて適切な服を選択して外に出るものだ。

スーツで遊園地に行ったり、半ズボンで企業説明会に行くと周囲から浮いてしまうように、職場で急にわがままな甘えんぼになっちゃったり、会社でのビジネスライクな言動を家庭に持ち込むと必ず違和感や軋轢が生まれてしまうのである。まあ基本的には我々はこういうことをしない。とにかく我々はTPOに応じて「私」を纏う。

 

厚着の人、薄着の人

 

次に僕が話したいのは、人によって服が厚着だったり薄着だったりするということだ。もちろん基本的には寒い環境であれば厚着をすべきだし、蒸し暑い環境であれば薄着をすべきだが、着目すべきは人によって寒がりだったり暑がりだったりするということだ。環境に関係なくいつも薄着の人、厚着の人。または薄着のときと厚着のときのギャップが激しい人。

 

具体例をあげれば、どこに行っても素そのものみたいな人も世の中にはいる。(僕のこれまでの論調だとありのままの自分なんてものは存在しないという考え方になるのでこう言い方をした。人は環境に依存せずに生きることはできないので、自分に付随する全ての記号・属性を脱ぎ捨てると自我を失うことになってしまう。)

なんだか突き抜けていて生きやすそうに見える。「ああいう人は自分を繕わずに楽そうだな」と周りは思う。これが薄着がちの人だ。

 

あるいは、プライベートと職場とでキャラが全然違う人。

休日はほんわかしていておっとりしているのに職場だとビシッと変身する人(偏見だけど女性に多い気がする)あれは何なんだろうな...仮面ライダーみたいだよね。原理はわからないけど、家でパジャマばかり着ている人が外に出た途端かっちりとしたスーツを着こなす、そんなイメージだ。こういう人は大抵責任感や正義感が強く、「こうでなくては」というビジョンをしっかり持っている。自分にも他人にも厳しい傾向がある。

気がする。

 

劇場空間型都市の解釈

 

さて。

ここでようやく主旨のほうに踏み込むことになるが、

「都市とは劇場である」という考え方がある。

これはどの分野の人がこの言葉を口にするかによってニュアンスが大幅に変わってくるのだけれど、今回は僕が大学で取り扱っていた建築及び都市計画の観点から説明してみる。

 

ディズニーランドの来場者は「ゲスト」と呼ばれる。(従業員はキャストという。)ゲストはディズニーランドにおいて「ディズニーランド的な」振る舞いをする。早い話がミッキーのカチューシャをしたりする。新宿でミッキーのカチューシャをして歩いていたら結構浮くし、おかしい人だと思われてしまう。なのに舞浜にある大型遊園地の敷地内では全然浮かない。むしろ普通のことだ。

新宿では浮く、ディズニーランドでは浮かない。

 

これを説明するためにはディズニーランドを「劇場型遊園地」と呼ぶ必要がある。

つまりディズニーランドにおいて来場者は「ゲスト」を「演じている」のだ。

「劇団四季」の「ライオンキング」で役者が上半身裸でライオンのたてがみをつけるように、「ディズニーランド」のゲストはミッキーのカチューシャをつけるのである。

 

ちなみにそういった「劇場型」の空間において、「演じない」という禁じ手を取ると場がすげえ白ける。「このソフトクリームって原価いくらなんだろうね」とか「こんな夏場の日って着ぐるみの中暑そう」とかね。これは折角劇場においてゲストを演じている人の目を覚まさせてしまう機能を持っていて、目を覚ますと「環境に踊らされてはしゃいじゃってる自分」が露呈して恥をかかかせることになる。

ので絶対にやっちゃだめだよ!場にそぐわない、「劇場」で「劇場」を否定する発言をする人は現実主義なのではなくて単に「その場」に「ノれない」KYなので注意が必要。

 

無数の属性を纏う我々 

 

これと同じことが、日常のあらゆる場所で起きている。

これが劇場型都市空間の考え方だ。

 

渋谷にいる人は渋谷の人間を演じている。

新卒は「新卒」を演じているが、

地元に帰れば「先輩」を演じるだろう。

ある人は会社では「部長」を演じ、

家庭では「父親」を演じているだろう。

SMクラブに行ったら「マゾ」を演じるかもしれない。

 

こんな風に僕たちは自分で認識している以上にあらゆる属性(=服)を持っている。さながらTwitterのハッシュタグみたいに。

 

アンディ#筆者 #明るい先輩 #ドジな部下 #長男 #兄貴 #友人 #マラソン選手 #東京人

 エトセトラ、エトセトラ....挙げ出せばキリがない。

 

 

 

最後に僕の見解として、都会の人は厚着で、地方の人は薄着というイメージがある。もう少し厳密に言うと、都会の人は薄着でいられる円が小さく(最小単位は自分の部屋だ)地方の人は薄着でいられる円が大きい。パジャマで近くの自動販売機まではセーフだけどコンビニは無理、みたいな(笑)

これは都会の核家族化とか地域毎の交流の密度とかが複雑に影響しあった結果だと推測する。が、またここに踏み込むと文章が長くなるのでよす。

 

本当に愛嬌があって根明(根暗の反対)な人が都会にいると、本人は薄着なのに「この人はどうしてこんなに厚着なんだろう?」というあらぬ誤解を受けるという悲劇も起きたりして、っていうかこないだ起きたんだよね。

 

そういうときに僕たちがどう振る舞うのか、

また今言ったみたいな悲劇が起きた時にどう対処すべきかというのは

現在担当の者が調査していますのでお答えしかねます....。

 このあたりは宿題にさせてください....。

 

 

おしまーい!

 

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