襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

「適切な世界の適切ならざる私」

 

今出ている資生堂の「花椿」夏号にて" 文月悠光"という名前の詩人が登場した。

何しろクレジットのところに「詩人 文月悠光」と書いてあったので非常に印象に残った。失礼ながら「詩人って食べていけるのか...?」という疑問が残った。それからこの作家が僕の同じ年だったことから「よしちょっとその詩とやらを拝見しようじゃねえか」という気分になったわけだ。

文月悠光の「適切な世界の適切ならざる私」を読んでいる。

 

 

適切な世界の適切ならざる私

適切な世界の適切ならざる私

 

 

そしてAmazonで「適切な世界の適切ならざる私」を購入して読んでいる。

僕はあまりにも詩が専門外なのだけれど結構熱心に読んでいると思う。そんな自分に少し驚く。最近はずっと教養書と哲学書と新聞ばかり読んでいたので、なんというか整体にいって体を両方から引っ張られてあちこちが「ボキボキ」と音を立てているような感触だった。

 

文章の意味を剥ぎ取っているわけではなくて、むしろその意味に没入することによって次の言葉を紡ぎ出している感じ?目をつぶってひたすら鍵盤に指を乗せて音楽で遊んでいる神童の演奏を聞いているような楽しさ・エキサイティングさがある。

こういう独特の詩を書く人はどういう訓練を受けて書くんだろう?それとも完全オリジナルで本当に好きなように書いているんだろうか。とてもきになる。

 

とにかくこの詩集を楽しんでいる。読み終えればまた初めから読み直して新しい発見に出会う。詩は解釈の仕方を読者に委ねられているので何度も読み返すと「ひょっとしてこれって僕でいうとあの時の体験のあの気持ちなんじゃないか」と思ったりして面白い。

 

それにしても詩は実用的にはなんの役にも立たない。役に立たないんだけど、自分の思考の枠を壊してくれる感じがした。結局世界は言葉でできているのだというのが僕の持論なのだけれど、つまりは自分の語彙が自分の世界の限界なわけだ。「うぜえ」と「だりい」しか言えない人は「うざい」と「だりい」しかない世界を生きるしかない。1000語の語彙のある人はそれだけの世界を、10000語の語彙がある人はそれだけ鮮明な世界を生きているのではないかと。

詩は言葉の限界を無視して「あんなこともできるよ!」「こんな言い方もあるよ!」というのを教えてくれる。それを読めば読むほど僕の世界が広がっていく。そしてその世界が膨張する感覚を僕は今ひたすらに受動して楽しんでいる。

 

 

おしまい

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