襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

死んだように眠れ(メメントモリとは程遠く)

 

つい先ほど一時間くらい前に、突然、

眠くて眠くて、もう死ぬほど眠くなった。それで仕方がなくそのままベッドに倒れ込んで眠ることになった。僕は死んだように眠った。まるで調子の悪くなったパソコンが持ち主の意思関係なくシャットダウンするみたいに。

 

 

電源が切れたパソコンってちょっと不気味だ。

画面は真っ暗で、全く音を立てずに他人みたいによそよそしい。死んではいないんだけど、死んでるみたいで不謹慎なビジュアルをしている。(哲学者の千葉雅也は似たようなシチュエーションとして故障してただの箱と化した不気味な洗濯機を挙げたことがある。)ヤマダ電機のパソコン売り場にあるパソコンたちは忙しなくでも画面を次から次へと写したり、美しい花や山脈のデスクトップを誇張してまるで新入社員みたいだ。すごくせかせかしている。一方でリサイクルショップのパソコンは、言うなれば寂れた夜の老人ホームのようだ。それは死んでいるのかわからない。あるいは、うちのどれかは本当に息をしていないのかもしれない。眠っているのと死んでいるのはすごく似ているから。

 

とにかく僕は死んだように眠った。それから小一時間眠って、少し頭がシャキッとした。脳内の細かいキャッシュが洗われてさっぱりした感じだ。生まれ変わったような気分だ。

 

それにしても「死んだように眠る」というフレーズはある意味で、ちょっと馬鹿馬鹿しい。眠るのも死ぬのも意識を失うことに変わりはないのだから眠るという行為は死を多分に含んでいる。

 

死ぬことと眠ることはどう違うのだろう。

大抵の人は死ぬのは怖いけど眠るのは怖くない。それはなぜか。死んだらそれでおしまいだけど、眠ったら次に起きることができるのがわかっているからだ。おしまいか、おしまいじゃないかの違いがそこにはある。

また、輪廻転成や死後の世界に関する考え方がある。イスラム教のコーランによれば信仰に先立つ物は死後アッラーの側に行くことができる。聖戦のために死んだ人間は優先的に天国に行けるから、イスラム教の戦士は死ぬことを恐れない。つまり、ひょっとしたら死の次を想像している人間にとって死は眠りに近しいものなのかもしれない。

 

では眠りは死とは似て非なるものなのか。僕はいつも毎晩死ぬような気持ちで眠りにつく。眠るのは死ぬことの予行演習のようだ。体を清めて、周辺の整理をして、眠るための服に着替えて、部屋を暗くしたらベットに静かに横たわるのだ。それと死と、どれだけの違いがあるだろう。

朝目覚めるとやはり自分だ。昨日の自分と他人ではない。でも全く同じ人間という気もしない。言うなればa(私)がb(私)になることはないが、a'(私)くらいになる感覚だ。それは同一線状にあって昨日と今日の僕は連続していながら、途中の睡眠という限りしなく死に近いブラックボックスの存在を無視できない。要は極端にいえば、眠っている間に一度死んで、それから息を吹き返して目覚めた可能性を僕は常に否定できない。

 

そんな風に僕は死んだように眠る。だいたい、一日って人間の一生みたいじゃないか。朝起きた時はまだ眠くて死に近く、うまく歩くこともできないし頭もはっきりしていない。できることも限られている。日中はフレッシュで活動的に動くことができる。日が暮れると仲間と酒を飲んで語り合ったり思い出話をしたり、一人静かに考え事をしたり本を読んだりする。そして誰しも眠りにつくのだ。

 

こうして僕は毎日死ぬ。これはmement moriの考え方に通じている。悔いがないように生きるといった大それたこととは程遠く、今日と明日が断絶した世界に僕は生きているのだ。

 

 

 

 

おしまい