襟を立てた少年

まだ間に合う 世界は素晴らしい

ブロックのようなことば

 

友人があるとき僕にこう言った。「"おまけに"って素敵な言葉だと思わないか。」

彼は「僕も"おまけに"って使えるようになりたいんだ。」

 

僕はそれがすごく良い姿勢のように思われた。

それで僕も、まずは"おまけに"という言葉を体得してやろうと思った。

 

 

翌週、僕は上司にこういう風に言葉を使った。「今日は残業します。クライアントから緊急で修正依頼がきて、おまけに新しい提案が入っているんです。」

 

このときの"おまけに"の違和感ときたら....!!

しゃべったあとで上司が「なんだその言葉遣いは!けしからん!」と怒り出すんじゃないかと警戒したくらいだった。それは、日本語でありながら英語のような手触りだった。

 

子供のころ英語教室で初めて先生に"How are you??"と口にした時の違和感を思い出した。なんとなく居心地が悪い感じ。それから気恥ずかしさ。

それは僕にとって先生に"ピッピロピー"と言うのと何ら変わりがないのだ。

 

極端に表現するなら、

「おまけに」=「How are you??」=「ピッピロピー」なのだ。

 

僕は、"おまけに"を繰り返し会話に織り交ぜることによって結果的にその言葉を手に入れることができた。手に入れるって言うのは要するに違和感なくいつでもその言葉を取り出すことができるということだ。

 

 

 

 

僕は「ありがとう」「おやすみなさい」そして最近になって「おまけに」という言葉は違和感なくいつでも取り出すことができるが、「ともすれば」とか「いきり立つ」とか「まっぴらごめんだ」はすぐには出てこない。使うことで言語を体得する。

でもこれってよく考えれば英単語の学習とプロセスは全く同じなのだ。

 

 

僕は最近「おしなべて」という言葉に着目している。

「概して・一様に」という意味だ。今度は「おしなべて」を日常会話に織り交ぜて使ってみようと思っている。

 

 

僕がこういうことを遊びのように繰り返しているのは

言葉を玩具のように考えているからだ。それは僕の中でブロックのように存在している。相手と会話するときに僕はブロックの箱をひっくりかえす。でも全部をひっくり返すわけじゃなくて、「よく使う」の箱をひっくり返すだけだ。上司と話すときは一緒に「礼儀」の箱をひっくり返すし、初対面の人とあうときはすべての箱をひっくり返す。そして会話が始まるとそれらをくっつけたり組み立てたりしながら会話をする。

それが僕がタイトルにつけた「ブロックのような言葉」の意味だ。

 

僕は相手に対して投げるブロックに、意図的に若干の違和感のあるブロックを混ぜることによって言葉に魅力を与えたいと考える。ひょっとしたら常に考えているかもしれない。それは単純に「おまけに」「おしなべて」といったマイナーな単語を入れるだけではなくて、例えば「最初は使いづらいなって思ってたんだけど使っていくうちにやっぱり使いづらかった」というような変則的な言葉の配列を楽しんだりする。

かつて詩人中原中也が文豪太宰治に「青鯖が空に浮かんだような顔しやがって」とふっかけたそうだが、さすがにそこまで意味がわからないことを言う準備は僕にはないけれど。

 

僕はおそらく、長く同じ言葉しか使わずにいて、そうして言語が限定されることで自分の世界が狭められてしまうのが怖いのではないかと思う。常に新しい言語を開拓して、感覚を拡張しないといけないという焦燥感がある。だからといっていつも国語辞典をめくっているわけではないのだけれど。

 

 

いつも以上にとりとめもないけれど、今日はここまで。

おしまい。