襟を立てた少年

生きるのが楽しくて楽しくて仕方がない人へ

公園のエネルギー

 

会社のお昼休みの放送が流れてもちっとも食欲が湧いていないことに気づいた。

胃に砂でもつまってるんじゃないかというほどの、ずっしりした不快感。

変なものを食べた記憶もないのだけど....。

 

公園に行こう。そう思った。

 

 

 

公園のエネルギー

 

僕は通常1日に2回公園を訪れる。

朝と昼。朝は出社前で、公園は会社とも駅とも違う方向にあるので、出社するときに公園から歩いていってほかの社員に会うと「なんでお前そっちから来るの?」と訝しがられる。一度「公園に行ってました」と回答したらますます理解不能というリアクションをされてしまったので、それからは「家がこっちで歩いて通勤しているんです」と答えるようにしている。

 

昼は通常、どこか定食屋で昼ご飯を食べてから、残りの10分とかを使って公園を歩く。大抵は公園を縦断するだけなのだけれど、わりとそれでも僕の精神は回復する。

 

 

 

今日はちょっと本格的に回復しないとやばいぞと思って、コンビニでおにぎりを買って公園へ直行した。ソメイヨシノの木の下のベンチでおにぎりを頬張った。

僕は公園のどこが好きなんだろう。かなり漠然とした「好き」という感情なのでうまく説明できない。それは、塗装がはがれたジャングルジムだったり、紅葉が終わりかけた山桜だったり、すっかりただの「木」になってしまったきんもくせいだったりする。あるいは、ベンチで目をつぶって音楽を楽しむサラリーマンや、半ズボンで走り回る子供たちを見ていても心が休まる。

 

 

ここには余暇がある。と僕は思った。

あるいは言いなおせば、「余暇を共有している」のだ。

 

 

ちょっとした隙間のような時間。安息。休憩。一息つく場所。

ここに来て、寝るなり、遊ぶなり、考え事をするなりして、普段いる日常・社会から一瞬だけ離脱できるところ。それを、僕たちは公園で「共有」しているのだ。

 

 

映画を一人で見るよりも、映画館で見知らぬ人と大勢で見るときの高揚感のような。ライブ感ともいえるかもしれない。赤の他人同士が、色々な目的があって同じ場所に集まっているけれど、結果としてみんな「自分の時間」を過ごしているのだという一体感。そういうものを僕は勝手に感じ取って安心するのである。

 

 

僕は朝も昼もそうだけれど(場合によっては夜も公園に訪れる!)公園にある木を観察して歩く。十月桜や、山桜やしだれ桜(この公園には驚くほど様々な種類の桜が植わっている)の決して派手ではない紅葉を一本ずつ確かめて冬の到来を目で感じるのだ。

 

 

 

前も書いたけれど、今は山桜の紅葉のラストシーズンだ。

会社の傍の山桜の紅葉ももう半分近く散ってしまっていて、

最後の見ごろとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

公園で遊ぶ子供が、水飲み場でいたずらをしようとしている。

蛇口をひねって水をたくさん出して、それを手で押さえて水圧で水を噴射しようとしているのだ。その子の母親が遠くから「ケンちゃん駄目だよそんなことしたら!」と叱った。ケンちゃんはバツが悪そうに「はあい」と答える。

最近の子は聞き分けがいいんだなぁ、なんて勝手にがっかりしていたらその直後ケンちゃんは蛇口を小さな手のひらで力いっぱい抑えこんで水をまき散らし、自分もびしょぬれになってしまった。

 

カンカンになってケンちゃんのところへ走っていくお母さん。びしょびしょの服でケラケラ笑いながら逃げ出すケンちゃん。

 

それを遠巻きに眺めながら「よっしゃ!」などとわけのわからないことを思っているうちに休み時間が終わりかけていて、あわてて会社に戻るのであった。

 

おやおや、何が言いたかったんだっけ。えーっと、公園最高!

 

 

 

 

おしまい