襟を立てた少年

まだ間に合う 世界は素晴らしい

フィルムのような人格

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フィルム

 

「フィルム」という言葉は、手前と後と、どちらにイントネーションを置くかによって感触がずいぶん変わるなと思った。

 

「フィ」を強く発音すれば映画っぽいし、「ルム」を強く発音すれば写真っぽい。

 

これはあくまで僕個人の感触として。

これから書くことはどちらかというと「フィ」のほうにイントネーションを置くから、そういう心づもりで読んでくれたらいいかもしれない。

 

 

 

 

フィルムのような人格

 

 

僕は牛乳を買うために近くのローソンに向かって歩いていた。

あんまり元気がなくて陰鬱な気分だった。特に何がそうさせるでもなく。そういう日って誰だってあるだろ?別に理由はないんだけど、なんか「はあ」みたいな気分の日が。

そういうとき僕は牛乳を飲むんだ。

 

 

 

 

たとえば、こんな風にたまたま陰鬱な気分の僕に初めて会った初対面の人は、僕のことを「暗くてネガティブな奴だな」と思うだろう。

思われても仕方がない。

 

 

 

しかし、僕はいつも陰鬱な状態ではない。

むしろ日ごろは楽観的で元気があって、ポジティブな感じだ。ゆえに僕のことをポジティブだと思っている人が身の回りには多い。

 

つまり、全体的な評価として僕がポジティブな人間だったとしても、たまたま陰鬱だったときの僕に出会った人は僕のことを「ネガティブな人間」だと思ってしまうということが十分ありえるのだ。

 

陰鬱な僕に対して「今日はたまたまネガティブだっただけで日ごろはポジティブな人間なのかもしれない。」みたいな寛容な判断を下してくれる初対面の人は少ないだろう。

 

 

振る舞いは連続する

 

つまりは確率の問題なのだ。

 

僕はある1週間において、月曜日は普通で、火曜日は明るく、水曜日は陽気で、木曜日は陰鬱で、金曜日は怒りっぽくて、土曜日は穏やかで、日曜日は情熱的なのかもしれない。こんな風に日々は続いていって、まるで連続してコマ送りされる映画のフィルムみたいにして僕の人格を形成するのだ。

 

連続することで表象する、フィルムのような人格。

 

 

 

それはパラパラ漫画のようなもので、1つ1つは静止画だったとしても、それが連続することによって動きを表現するのだ。

 

 

つまりはそれが人格だ。

 

スコット=フィッツジェラルドは「グレートギャツビー」において「もし人格というものが人目につくジェスチャーの途切れない連続だったとしたら」という言い回しをして見せたけれど、僕が言いたいのはこれにとても近い。

 

 

面接が得意な人は、あらかじめ自分の人格フィルムの中から「良い面」を抜粋して上手に編集することによって、まるで映画の予告編でもつくるみたいにつなぎ合わせて披露して見せる。

面接が苦手な人にはこれが難しいのだろう。

 

 

 

牛乳を買ってローソンを後にする。

僕は身の回りの人のことをどれだけ知っているのだろう。

今日牛乳を買ったときの店員さんはまあまあ感じが悪かった。僕がレジに牛乳を置くと、面倒な家事を押し付けられた子供のように口の端を少しさげて、ニワトリを処理するようにして僕を捌いた。

 

 

ちぇっ、と僕は思ったが、その時の彼にしても、彼の人格というフィルムの一瞬の一コマに過ぎない。ひょっとしたら毎朝ボランティアにいそしむ善良な市民かもしれないし、親ヘの仕送りをしながら学業に励む苦学生かもしれない。

知らんけども。

 

 

無限に連続する人格のほんの1カットだけを見てその人の人格を判断するのは、例えるならリビングで親が観ている映画を一瞬横目で観て「つまらなさそう」と判断するくらい勿体ないことだ。もったいないというか、あまりに表面的な生き方じゃないかと考えてみる。

しかし同時に、僕たちは視界に入ったすべての映画をレンタルして山積みして、一番上から順番に丁寧に観ていくことは出来ない。人生の時間を考えれば、時間がいくらあっても足りないからだ。

 

 

だから必然的に、さっき僕がコンビニの店員さんに「ちぇっ」と思ったように、一瞬の一コマを見てその人を判断せざるを得ない。ことがあまりにも多い。

対面において寛容に相手の人格を判断して吟味する機会を僕たちは初めから喪失しているのかもしれないとすら思う。

 

 

 

さて、僕が80%の確率で陽気な人間だったとするなら、単純計算で80%の初対面の人は僕のことを陽気だと判断するだろう。そして同時に20%の人はどうしても僕のことを陰気だとか怒りっぽいと判断するだろう。

それは仕方がないことで、すがすがしさすらある。

 

 

そんなに誤判定が嫌なら、何度も相手と接触して、本来の人格をきちんと見てもらう必要がある。例えば家族が落ち込んでいたら、「何かあったのかな」と思うはずで、「暗い人だな」とは思わないはずだ。それは長年一緒にいることで家族の様々な面を見ているからに他ならない。「今日はたまたま気分が悪かったんだな」と思ってもらえるのは、蓄積された人格に対する「信用」があるからだ。

 

人はサイコロのように様々な面があって、おまけに日々色んなことがあるもんだから毎日サイコロを振っているようなものだ。そんなことは誰だって頭ではわかってることなのだけれど、僕たちは日々様々な人と会って対面するのでオートマチックに相手を判断するのに慣れてしまった。脊髄反射的に「この人はこういう人なんだな」と判断しがちだ。

 

 

 

どうあがこうと20%の確率で人に悪印象を与えるのであれば、無理していつも良い面を見せる必要はない。という結論に至り僕はほっとする。

 

しかし同時に!大切な人に対しては振る舞い続けることをやめてはいけない。継続が肝要なのだ。陽気な面を、優しい面を、弱い面を、ダサい面を、怒りっぽい面を。何度も何度でもサイコロを振って、出てきた面を楽しみながら、それを相手に見せる"勇気"が必要なのだ。それが理解されることであり理解するということなのだと今は思う。

 

 

最後に、この文脈には必ずしも合致しないのだけれど、今どうしても引用したいお気に入りの詩がある。ベニシア=スタンリー=スミスの言葉だ。

 

 

「人生は嵐が通り過ぎるためにあるのではない。雨の中でもダンスを踊れ」

 

 

 

 

今は家で牛乳を飲んでいる。

おしまい