襟を立てた少年

まだ間に合う 世界は素晴らしい

自己肯定と否定のサイクルのすすめ

 

 

これは絵に限ったことでないけれど。

 

 

ある時、やたらと上手く絵がかける時期がやってくる。もうすらすら絵が描けてしまう。

 

すらすら描けるのが楽しくて、しかも思い通りの線が描けるから余計に絵を描くようになる。すごい、なんだか急に天才になっちゃったみたい!

 

それは今までちぐはぐだった歯車が噛み合う瞬間だ。思い通りになる、

 

上手く行ってる!というイメージ。

 

 

でもその瞬間は長くは続かない。

 

あるときぱったり描けなくなる。

 

あんなにすらすら描いていたのに、あのときの抑揚が思い出せない。ペンを走らせてもなんだかぐずぐずする。

 

 

うそー、こないだまであんなに描けてたのに。スランプってやつかしら?

 

と疑って凹んだりする。

 

 

 

 

でもそれはスランプではない。

そして絵が下手になったわけでもない。

 

 

 

 

この2つのとき、「いける!」と「だめだ!」というときの実際の能力、ポテンシャルには実は差がほとんどない。

 

どっちも同じような絵を描いていて、その絵に対する自分の評価が変わっているだけなのだ。

 

 

 

「いける!」というときは、能力が審美眼を超えているときだと考えている。

 

 

コツを掴むか何かしていつもより上手く描けるようになったとき。それはたしかにスキルアップの瞬間だろう。

 

そして「だめだ!」というのはいけるときの後にやってくる。

 

これは今度は、審美眼が能力に追いついてしまったのである。言い換えれば、自分の絵に見慣れてしまったのだ。

 

だから、本当に描けなくなったわけではない。今の絵に納得できなくなっただけで、成長を善とするならば、それは喜ばしいことだろう。

 

 

 

こんなふうにして能力と審美眼は追い越したり追い越されたりしながら磨かれていく。

 

いつまでも我々は人参が食べられるようになったことや、歯磨きをきちんとするようになったことを誇りにしない。満足もしない。

 

 

だから「いける!」ときは、確かに自分の予想を超えた自分を見ているようで、ちょっとした全能感や自己肯定感があって最高にキモチイイのだけれど、その瞬間は停滞のときなんじゃないかと思う。

 

つまりは、「わたし出来てる!」という意識は自己満足のベクトルなので、「もっとやらなきゃ、上を目指さないと」という意識は働かないのである。

 

 

成長するのはむしろ「だめだ!」のときで、もっとこうしたいという審美眼=本来自分はこうあるべきだ!に対しての等身大の自分に納得できていない状況は、その認知性不協和を脱するために頑張るしかないわけだ。

 

 

人が目標を目指すのは目標に到達していないからであって、今いる場所に満足しているなら人はそこから動こうとはしないものだ。

 

かといって「だめだ!」の時期があんまり長くて自分を許してあげられないでいるとなかなかしんどい。現代社会ではそういった人を良く見受けるが、真面目であるがゆえに自分に厳しすぎるのだと思う。

 

 

「だめだ!」が長引くと心が折れてしまう。モチベーションはそんなに継続しない。

 

 

だからベストなのは、そのサイクルだろう。「いける!」「だめだ!」の繰り返しだ。この繰り返しによって我々は自分を褒めたり貶したりして健全に成長できるのではないか。外部にモチベーションを預けることなく。

 

 

 

 

おしまい